私の地元には、海を一望できる低山がある。
この山を切り開いて作られた道は、今では景勝地の一つとして数えられている。
この丘から海へと続く一本の坂道は、海を見下ろせる坂、という意味で「見下ろし坂」と昔は呼ばれていたようだ。
そんな美しい場所にあるこの坂だが、地元の人間の間では、とある噂が囁かれていた。
地元の人間である私もよく知っている、悲しくも不思議な噂だ。
もうずっと昔、市街地と海を繋げるために山を切り開き、見下ろし坂を作る工事をしていた頃のことだ。
当時は貧しい人達が集められ、かなり過酷な環境で夜遅くまで作業をしていたらしい。
その工員達の中に一人、明るく朗らかで、誰からも愛される純粋で善意に溢れた若者がいた。
雇い主に酷い目に遭わされても、仲間の工員には優しく接し、皆を労わっていたという。
(雇い主とは言っても、話の内容から察するに現場監督のような立場の人間だったのではと私は思う)
ある日の深夜、足を滑らせた一人の作業員が、切り開いた山の崖から運悪く滑落した。
例の若者だった。
皆から離れて工具を取りにいこうとしたところ、足を滑らせてしまった。
助けに行ける場所じゃない。諦めろ。
滑落したところを見たという雇い主からはそう説明されたが、誰一人としてそれを信じることはなかった。
本当は日頃から彼を特に忌み嫌っていた雇い主が、彼に暴力を振るって殺し、証拠隠滅に崖から落としたのでは、と。
雇い主を疑った工員達は彼を救おうと雇い主に救出を訴えたが、それを認められることはなく、泣きながら作業を続けたそうだ。
抗議を続けようとしたり、警察を呼ぼうとした人間は、容赦なく暴力を振るわれ、口をきけなくされたのだという。
それから数日後の朝、彼は崖の下で死体として見つけられた。
彼を諦めきれなかった工員が、早朝に山を探し続け、藪の中に落ちていた彼を見つけたのだ。
滑落中に傷付いたのだろう、元々ボロボロだった彼の服は破れ果て、残っていた肌はやすりがけされたように細かな傷と裂傷があった。
死体は既に獣に多くの部分を喰われ、本当に惨い姿だったらしい。
彼には身寄りもなかったため、仲間たちが雇い主に隠れて山に埋葬し、小さな祠を建てた。
するとその日の夜、彼を助けられなかったことを悔いていた工員達の夢に、亡くなる前の姿で彼が現れた。
夢枕の彼は、工員達に自分を助けようとしてくれたこと、埋葬し自分のために祠を作ってくれたことに感謝していたそうだ。
そして夢の最後に
「必ず恩を返す。報いは受けさせる」
と彼が話したところで、工員達が皆目を覚ました。
その後、雇い主が不正を犯していたという理由で、突然新たに優しく真っ当な雇い主が来た。
作業服も良いものが支給され、賃金も上がり、人並みの生活を営めるようになった工員達は心から喜んだ。
「あいつがきっと助けてくれたんだ」
全員がそう思った。
以前とは違い、深夜までの長時間の労働もなくなり仕事に一層精を出していた頃、前の雇い主がこの山で死んだという噂がどこからか流れてきた。
死んだ時刻は深夜、丁度あの彼が崖から滑落した頃だ。
全身に卸金ですりおろしたような傷と裂傷、身体のあちこちが獣に喰われた状態で、三日三晩野晒しになっていたらしい。
そこは既に坂の形を成しており、最近見下ろし坂、と地元でも呼ばれ始めていた場所だった。
何故前の雇い主がそんな場所にいたのか、刑務所にいるはずなのにどうやって見下ろし坂まで来たのか、誰にも分からなかった。
「あいつの呪いだ」
「ひでえことした罰だ」
「卸金におろされたみたいな死体だったんだろ。おっかねえ」
工員達が口々に言う中、死体を見つけた一人の工員がぼそっと呟いた。
「身をおろす坂…身卸坂…」
しん、と静まる工員達。
身卸坂と呟いた工員は、無言で立ち上がり作業に戻っていった。
そうして数ヶ月後、見下ろし坂を含む海へと続く道が完成した。
あの雇い主の事件を思い起こさせるのは縁起が悪いため、見下ろし坂はとても明るい名前を付けられた。
それから数年後、いつの間にか『見下ろし坂で海から昇る朝日を見ると、酷い労働から解放される』という噂が出回るようになった。
実際、上司からの暴言と暴力に悩まされていた労働者が酷い環境から救われた、などの話が今でも出続けている。
だが、労働者にとって神様のようにも思えるこの話には、ひとつ、不可解かつ恐ろしい事実がある。
それは、
『救われた労働者に害をなしていた人物が全員死んでいること』
体験談として見聞きする全ての話において、見下ろし坂で朝日を見てから数か月以内に加害者が死んでいるのだ。
死因までは語られないものの、数少ないネットに出回る体験談でも、地元で聞く噂話でも、死んでいない者はいない。
また、海から昇る朝日を見に行った者自身も、加害者が亡くなる数日前には、必ずあの坂で見た朝日を夢に見るのだという。
まるで苦境からの解放と救いを告げるような、ぞっとするほど美しい朝日の夢を、だ。
加害者の死に喜ぶ人間もごく稀にいたが、多くはしばらくして「自分のせいで」と心を病んでしまうそうだ。
その話を聞いて、酷い人間がこの世からいなくなっただけ、救われて良かったじゃないか、という人がいる。
しかしその一方で、これは労働者への救いではなく、ただの呪いではないか、と語る人もいる。
呪いでも救いでも、この見下ろし坂は苦境にある人を救い、加害者を殺すのだろう。
事の善悪は、私には到底判断できない。
どういう風に話が変化したのか、今ではこの坂は、仕事運上昇のパワースポットとして多くの人に愛されている。
何も知らない人が、この坂から見える美しい朝日を拝みに来ることもあるようだ。
ちなみに私の曾祖父は、かつて見下ろし坂を作った工員の一人だった。
「死んだあいつのことは皆好きだった。だが、お前はあの坂には行くな」
私の目を見て繰り返しそう言った曾祖父の、恐ろしく静かで空虚な眼差しを、私は今もよく覚えている。
海と陸を繋ぐ一本の坂道。
行きたい人を私は止めたりしない。
朝日を見に行かない限りは。
著者/著作:怪文庫【公式】(Twitter)