これは、私が子供のころ夏休みに祖父母の家に遊びに行った時の話です。
その町の住人のほとんどが漁業を営んでいるような地域で、実際に私の祖父も漁師をしておりました。
その地域には昔から海難事故にあった際に無事生きて戻れるよう、海から帰してもらえるよう、海に自分を覚えてもらえうために、生まれた子供を汲んできた海水で洗い、海水を口に含ませるという風習がありました。
当時、祖父の家の隣には他県から移住してきたという若い夫婦が住んでいたのですが、近隣住民とも仲が良く、町にも馴染んでいるようでした。
私も遊びにいくたびお菓子をくれたり遊んでくれたりとよくしてもらった覚えがあります。
ある年、祖父母の家に遊びに行ったとき、その夫婦に子供ができたみたいで奥さんが無事出産が終わったとのことで、出産までの間、祖母が何かと世話をやいていたらしく赤ちゃんを連れて祖父母の家に挨拶にきました。
当時、私は赤ちゃんを初めて見たこともあり、何か猿みたいだなっと思ってその赤ちゃんをぼうっとながめていたこともあり細かい会話の内容までは覚えていないのですが、
祖父が「そういえば、赤ちゃんの体は洗ったのか?まだなら、二軒隣の○○さんにやって貰え」みたいなことを言っていました。
その地域の風習を知らない夫婦は何のことかわからなかったらしく、最初は会話がかみ合っておらずおかしな感じでした。
その後風習のことを聞いた奥さんが、赤ちゃんの肌が荒れるとか体にわるそうだし困ると言って海水で体を洗ったりすることを拒否しました。
すると今までにこやかに会話していた祖父が急に無表情になり、海に覚えてもらうためだから。とか、水物はこえーぞ。とかいって奥さんの方に詰め寄っていました。
夫婦は困った顔をして、少し考えてみますといって逃げるように帰っていきました。
それから何日かたったある日の晩、隣の家に救急車が来ました。サイレンの音やあたりを照らす赤いランプ、場の騒然とした空気感を今でもを覚えています。
どうやら赤ちゃんがお風呂で溺れたらしく、奥さんがパニックを起こしていました。
やがて一家を乗せた救急車が去り、それを見ていた近所の人たちは、「やっぱり」とか「洗わないから」とか口々に言っていました。
私がまだ幼く風習のことがよくわかっていなかったのですが、普段やさしい近所の人たちが何だか嫌なことを言い合っている感じがしてその普段とは違った様子をみて恐ろしくなりました。
結果として子供は死亡してしまい、夫婦も別の地域に引っ越して行きいなくなってしまいました。
私はこの間見た赤ちゃんが簡単に亡くなってしまったことや夫婦がいなくなってしまったことに、悲しみとも何とも言えない不思議な気持ちになったのを覚えています。
それ以降、祖父母も近所の人たちも以前と変わらず皆優しく、私は無表情で詰め寄る祖父や嫌なことを言い合っている近所の人たちが、私の見た夢か思い違いだったのではないかと思うようになっていきました。
やがて私の休みが終わりに近づき、家に帰る日がきたのですが、その時迎えに来た両親と祖父が隣の家を見て、「ちゃんと体を洗わないから」とか「覚えてもらわないから」とか言っていたのを聞いて、近所の人たちの様子を思い出し、やっぱりあれは現実のことだったのだと思い怖くなりました。
その後、祖父母が死んでしまいその地域に行く事もなくなり、今もその風習が残っているのかはわかりません。
その後のことですが、私はこれまでに3度海で溺れました。1度目は波にのまれ前後不覚になっているところをたまたま近くにいた人に助けられました。
2度目は海の上に大きなボードが浮いていてボードの上に乗ったりできるネットで囲われた海水浴所でした。
私はそのボードの下に波の勢いで入り込んでしまい、水着の一部分がボードを固定している金具の部分にひっかっかてしまい抜け出せなくなりました。自力では外れず、もうダメかと思ったのですがちょうどその時大きな波がきたみたいで運よくひっかっかていた部分が外れボードの下から抜け出すことができました。
正に九死に一生を得ました。
3度目はどう助かったのかわからないのですが、気が付いたら砂浜に打ち上げられていました。
目を覚ました時に耳元で何故か、祖父の方言交じりであの時若い夫婦に言っていた、「海に覚えてもらうためだから」という声を聞いた気がしました。
後で助けようとしてくれた友人に話を聞いたところ、最初私はまるで海に潜っていくような体制をとった後、波に身をゆだねるように揺られて遊んでいるように見え、とても溺れているとは思わなかったとのことです。
それ以降、流石に泳ぐのはもう止めようと思いそれ以来海には入っていません。
今になって思うのは私も海水で体を洗われ、海に自分を覚えてもらっていたのかなということです。
もし、私に子供が生まれたとしたら風習に従い子供を海水で洗いその口に海水を含ませるといったことをすると思います。
一地方の風習がこのように地域を超えて人から人に受け継がれていくのだなと大人になった今感じます。
著者/著作:怪文庫【公式】(Twitter)