私は以前、葬儀会社で働いていました。
とはいっても個人経営の小さな会社です。店舗、と呼んだほうがいいくらいの。
葬儀の場というものは、まさに悲喜こもごもです。
映画などでそれをテーマにしたコメディがあるくらいに、ときにはドタバタとすることもありました。
一方で人の感情の暗い一面をみることも日常でした。
あれは私が入社して3年目だったかと思います。
70代で急死した男性の葬儀を執り行うことになりました。
先にもいいました通り、我が社……といっても今は退職していますが、とにかく少人数ですので出勤日の社員が全員で業務にあたります。
小さな葬儀社ではありますが儀式を行うためのスペースや、通夜のために遺族が休憩するところもあります。
通夜のあと、遺族が思い思いに過ごしている間を縫うように、翌日の準備などをしていました。
ふと。違和感を覚えたのです。
はっと目を上げたとき、他の社員と目が合いました。
2年先輩である彼の目は、私の違和感を彼も肯定していること、そして「よくあることだよ」とでも言わんばかりのものでした。
【遺族に悲しみの感情がみられない…】
もちろん常に涙を流しているのが当たり前というものではありません。
ときには気が緩み、笑顔を見せる遺族もおられます。しかし、それとは違うのです。
「面倒くさい」とでもいうのでしょうか。悲しみの表情というよりも、感情が端からないような、そんな表情。
彼らは小さい声で話していましたが、それがなにかは聞き取ることができませんでした。
先輩の表情が語っていた通り、おそらくはよくあることなのでしょう。
専制君主な暴君で「やっと逝ってくれた」のかもしれない。長い闘病生活で、家族もようやく解放されたのかもしれない。
さまざまに想像しましたが、やはりどうしてもどれも当てはまらない気がしたのでした。
我が社では葬儀の後、親族とご遺影で集合写真を撮るサービスがあります。
プロのカメラマンを雇うほどの余裕はないので、学生時代カメラをいじっていた私が主に担当していました。
みなさんに並んでいただき、準備を。
やはり誰もかれもがなんの感情ももたないような顔つきで、「もうちょっと右つめて」などと小さな声で話していました。
皆が正面を向いた頃を見計らって、
「では撮りますよー、3、2、」と数えた瞬間。
うっかりとシャッターボタンを押してしまいました。
撮り直さなければとふとデジタルカメラが今しがた撮影した写真を見た瞬間にぞっとしました。
写真に映る遺族、みな満面の笑顔でこちらを見ていたのです。
背中に伝う汗を感じながら前をみると、みな怪訝な表情でこちらを見ていました。
もちろん、笑顔などどこにもありません。
その後改めて撮影をしなおしましたが、よくある集合写真になっていました。
あの笑顔が偶然の産物なのかは分かりません。
ただ、後に先輩に聞いたところ、故人は地元の名士と呼ばれるような人物であったとのこと。
本来ならもっと大きい葬儀場で「盛大に」それが執り行われてもおかしくない立場であったようです。
故人の残した財産は大層なもので、遺族で分け合い、相続税をひかれても結構な額だったであろうとか。
遺族たちが見せていた「無」の表情は、ともすれば湧いてしまいそうな「喜」の感情を抑えるものであったのではないか。
彼らの内心をカメラが写しとったのではないか。そう思うとぞっとしたのです。
それから数年たち、似たような場面に立ち会うことが数回ありました。さすがにあのような写真が撮れたことはありませんでしたが。
私は人間というものが少しずつ怖くなり、会社をやめたのです。
今でも鏡をみると怖くなります。
私は腹の底にある感情を出してはいないか。
誰かへの憎しみが表情にでていないか。
あれから随分経ちますが、未だにときどき自分自身ですら信用できなくなることがあるのです。
著者/著作:怪文庫【公式】(Twitter)