その年は記録的な酷暑が続き、毎日のようにニュースで取り上げられていた。
そんな蒸し暑い夏の夜の出来事。
俺は日差しが照りつける空の下、毎日外回りの営業のため一日中歩きまわていた。
その日の夜も汗だくで仕事を終え、帰路につくために停留所でバスを待った。
時間きっかりに来たバスが、俺の前で停車する。車内に乗り込むと、人がまばらに座っていた。
いつもの光景。
車社会の地方都市から、さらに田舎へと人を運ぶバスは、この時間帯は利用者も少ない。
「ふぅ……」
いつもの席に座り一息ついた。
今日は金曜日。風呂の後に飲むビールが冷蔵庫の中でキンキンに冷えている。明日は休みだ、2本飲んじゃおうかな。
そんな事を思いながら、車窓を流れる人家の灯りを眺めていると、溜まった疲れと心地よい冷房のためか、急に眠気に襲われ、俺はそのまま眠ってしまった。
「オギャーッ」
急につんざくような泣き声が聞こえ、俺は驚いて飛び起きた。
赤ん坊の泣き声だ。
こんな時間に珍しいなと車内を見渡す。
「……え?」
思わず声が出た。
前の座席には中年のサラリーマンらしい男がひとり。後ろを見ると男子高校生がうたた寝をしている。赤子の姿は無い。
じゃあ、さっきから聞こえてくる声はなんだ? 車内の人たちはこれに何の反応も示さない。まさか、こんな大きな声が聞こえていないのか?
その時、足元に違和感がして視線を下げる。
「うっ……!!」
赤ん坊だ……。
赤ん坊の上半身が前の座席から“生えて”いた。
しかも普段俺がよく見る赤ん坊ではない。なんというか……シワシワなんだ。前にテレビで見た出産シーンで生まれたばかりの赤ん坊を見た事があるが、まさにそれだ。
泣きながらこちらを見上げる目は、不気味なことに白目の部分が無かった。
この世のモノではないということを瞬時に理解する。
“それ”はソーセージのような腕を伸ばし、俺の右足を掴んだ。
「──ヒッ!!」
恐怖のせいなのか、この赤ん坊の仕業なのか体が全く動かせない。
相変わらず、泣き声は耳元で大音量で聞こえてくる。頭が痛くなってきた。
顔をしわしわにさせながら泣いている赤ん坊は、そのままゆっくりと這い上がってきた。
腕を伸ばし這い上がってくる度に重さが足に感じるのが酷く生々しかった。
気持ちが悪い……。
吐き気が込み上げて涙が滲む。
視線を逸らしたいのに、どういう訳か赤ん坊から目が離せない。
近づいて来て分かった。白目の部分が無いと思っていたがそこは空洞だった。
ポッカリと開いた穴は、深淵を思わせる深い深い闇のように思えた。
「うぅ……」
声を出そうと思っても出せない。まるで喉仏を押しつぶされているようだ。
あっという間に、赤ん坊は膝の上まで来ていた。ワイシャツの胸元を掴まれ、もう片方の手が俺の顔まで伸びてきた。
やめろっ!!来るなっ!!勘弁してくれっっ!!
心の中で叫ぶが、それも虚しくどんどん近づいてくる。
小さな指が俺の目に触れそうになった時だ。
「次は◯◯前、◯◯前。お降りの方は……」
アナウンスの音声が流れ、赤ん坊の手がピタリと止まり、泣き声も止んだ。
同時に体が自由になった感じがして、俺は膝の上の赤ん坊を払いのけるのと同時に立ち上がる。降車ボタンを押しながら前の座席まで逃げるように急いで移動した。
通路を挟んで、横のサラリーマンが不思議そうな顔で俺を見るがそれどころではない。
恐る恐る後ろを振り返るが、さっきまで俺が座っていた座席にはもう何も居なかった。
空調がきいている筈なのに、嫌な汗が背中を伝っていく。
停留所で降りた途端、青臭い空気とともに蒸し暑さが一瞬で俺の体にまとわりついてきた。
「……何だったんだあれは」
言いながら走り去っていくバスの後ろ姿を見送りながら、首筋の汗を拭った。
あの出来事以来、俺はバスには乗らず電車で帰っている。
駅まで少し遠いし、疲れている時は歩くのもしんどい時もあるが、バスに乗ったらまた“あいつ”と遭遇してしまう気がしてならないから。
幸いにもあの出来事以来、俺の周りで不可解な事は起きてはいない。
まいったのは、赤ん坊の泣き声を聞くと動悸がするようになってしまい、克服するのに数ヶ月かかったことくらいか。
著者/著作:怪文庫【公式】(Twitter)