私が中学生の頃の体験です。
私たち家族は父の転勤で関東の小さな町に引っ越してきました。
その街には東西に大きな川が流れていて、川にかかる石畳の橋が印象的な、自然豊かで静かな街でした。
引っ越しをして数日が経った頃、近所でお祭りがあったのですが、私はその日、なぜか朝からずっと身体がだるくて出かける気になれず、家でゴロゴロしながら過ごしていました。
両親も姉もお祭りに出かけてしまった夕暮れ時、家で一人きりになった私は、ソファーでテレビを見ながら過ごしていたところ、いつの間にか眠ってしまっていました。
すると身体が段々動かなくなっていくのを感じ、金縛りになったのだと思いました。
実は私は幼い時から金縛りになりやすい体質で、中学生になった頃には独自の金縛りを解く方法も身につけていました。
この日も「あぁ、またか…」と思いながら、いつものように目を固く閉じて、ゆっくりと国歌を歌いながら指をひとつひとつ順番に動かして金縛りを解こうとしました。
しかし、この日はいつもと違って金縛りは解けるどころかどんどん強くなっていくばかり…。
おかしいなと思っていたら、いつもは開くはずのない目が自分の意志とは関係なく、急に大きく開いたのです。
目に飛び込んできたのは、天井に張り付き、こちらを眺める一人の女性。
白装束を身に纏い、青白い顔に、窪んだ瞳。体はか細く、湿った長い髪からはしずくが滴り落ちていました。
見たくない恐ろしい光景なのにどう頑張っても目を閉じることができず、ずっとその女性を眺めていることしかできませんでした。
どれくらいの時間が経ったのか分かりません。
数分だったかもしれませんが、まるでその時間は永遠のように長く感じました。
女性の窪んだ瞳は焦点があっていないのか、ぼんやりと私を見つめていました。
しかし急に私の瞳をとらえると、今までうつろだった瞳がカッと血走り、私をにらみ始めたのです。
その形相は“鬼”と表現するには足りないくらい、恐ろしいものでした。
そして女性はゆっくりと私に近づいてきたのです。
私は直感的にこの状況はかなりやばいと思いました。
もう一度国歌を心の中で唱えながら、指をゆっくりと動かしました。
私は「早くこの金縛りを解いて逃げないと…!」と必死でしたが、私の気持ちに反して女性の姿はどんどん大きくなっていきます。
手を伸ばせば届きそうな距離に近づいてきたことを察し、女性の長い髪が私の頬に触れました。
私は「あぁ、もうダメだ…」と悟ったその瞬間、家のインターフォンが鳴り響きました。
その瞬間、あんなに強かった金縛りが解けて、私の身体は一気に解放されました。
状況が理解できず、呆然としていると、二度目のインターフォンが鳴り、私は我に返りました。
私は汗をかき、震えた身体を起こして、急いで玄関に向かって扉を開けました。
しかし扉の向こうには誰もいませんでした。
私は恐る恐るリビングに戻り部屋を見渡しましたが、そこには女性はもちろん誰も居らず、私ただ一人でした。
私は放心状態で窓から差し込む夕明かりをぼんやり眺めていると、私がたった今まで横になっていたソファーが目に飛び込んできました。
そのソファーには明らかに私ではない人の形をした汗の跡がくっきりと残っていたのです。
髪が長く痩せているであろうその人型は、どう考えてもさっきの女性でした。
その日の夜、お祭りから帰ってきた両親と姉がお祭りの由来について話してくれました。
それはこの街の象徴ともいえる、川に架かる石畳の橋に関する言い伝えでした。
昔、この川に何度も橋を架けようとしたそうですが、その度に大雨で橋が流されたり、不慮の事故で工事が中断したりしたそうで、なかなか橋が完成しませんでした。
街の人にとって橋の有無は生活に関わる重大な問題です。
そこで街の人たちが氏神様に仕える巫女さんに相談したところ、人柱を立てる事が決まりました。
つまり生贄を捧げることで、工事の成功を祈願することにしたのです。
選ばれたのは街で一番美しいと称されていた十代の女性でした。
彼女の両親は街のためなら、と泣く泣く娘を差し出すことにしましたが、彼女は許嫁との結婚の日取りがあと数日に迫っていた時だったそうで、かなり抵抗したのだとか。
それでも一度決まった決定は覆すことはできません。彼女は無念の中、あの美しく大きな川に沈んでいったそうです。
彼女の犠牲のお蔭か、その後橋は完成し、今も街の象徴として人々の生活を支えています。
しかし、橋が完成した頃から、いたるところで彼女にそっくりな女性の霊が目撃されるようになりました。
その霊を恐れた街の人は、彼女の魂を鎮めるためにこの祭りを毎年開くようになったそうです。
この私の体験がこの悲しい女性の言い伝えと関係しているのかは分かりません。
しかし、あの彼女の目に大きな悲しみと無念さがあったように思います。
翌日私は彼女が人柱となった石畳の橋を訪れ、そっと手を合わせました。
あの恐ろしい体験から数年が経ち、今も私たち家族はこの街で生活していますが、あれから彼女が私の前に現れることは一度もありませんでした。
著者/著作:怪文庫【公式】(Twitter)