怪文庫

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消えた客室

これは、私が大学時代の友人たちと山奥の旅館を訪れた際に体験した、今でも忘れられない奇妙な出来事です。

 

その旅館は観光地としても知られる山間の温泉地にあり、歴史と趣を感じさせる佇まいでした。

 

しかし、そこで過ごした時間は、決して癒しとは程遠い、不思議で不気味なものでした。


旅館に到着したのは夕方5時ごろ。

 

夏の日差しも山間部では早く沈み、辺りはすでに薄暗くなっていました。

 

木造の旅館はどことなく老朽化を感じさせるものの、風情ある雰囲気が期待感を高めてくれました。

 

しかし玄関に一歩足を踏み入れた瞬間、妙な寒気が背筋を走りました。

 

真夏にもかかわらず、旅館内の空気はひんやりとしており、まるで冷気が充満しているような感覚を覚えたのです。

 

 

フロントで受付を済ませると、対応してくれた中年の女性スタッフが「本日は特別なお部屋をご用意しております」と微笑みながら言いました。

 

私たちが予約していたのは「208号室」でしたが、手違いで「209号室」に変更になったとのことでした。

 

少し気になったものの、彼女の落ち着いた態度に安心し、そのまま部屋に案内されることにしました。


209号室は廊下の突き当たりにありました。

 

重厚な木製の扉を開けると、畳敷きの広々とした和室が広がり、窓からは山々の景色が見えるはずでした。

 

しかし、部屋はなぜか薄暗く、窓の外は鬱蒼とした木々で視界が遮られていました。

 

友人の一人が「何か暗い感じがするな」と漏らしましたが、旅の疲れもあってか、特に気にすることなく荷物を置いて一息つきました。


それでも、部屋全体が異様に静かで、外の虫の声や風の音がほとんど聞こえないのが気になりました。

 

まるでこの部屋だけが音を遮断されているかのような不自然さに、私の心は少しざわついていました。


夕食を終え、温泉でくつろいだ後、私たちは部屋に戻りました。

 

時刻は夜11時を回り、友人たちはすぐに寝息を立て始めました。

 

しかし、私はどうしても寝付けませんでした。

 

もやもやとしていると、静まり返る中、「コツコツ」という足音が廊下から聞こえてきたのです。

 

まるで誰かがゆっくりとこちらに近づいてくるようなその音に、私は息を飲みました。


音はやがて部屋の前で止まりました。

 

私は恐る恐る扉の向こうに耳を当てましたが、そこには何もありませんでした。

 

それでも、誰かが扉越しにこちらをじっと見ているような気配を感じました。


部屋に戻ると、今度は部屋の隅から「カサカサ」という微かな音が聞こえてきました。

 

友人たちは相変わらず深い眠りの中でしたが、私は布団を被り、その音が止むのをひたすら待ち続けました。

 

 

翌朝、チェックアウトの手続きをするためにフロントへ向かいました。

 

何気なく昨夜のことをスタッフに話すと、受付にいた高齢の男性スタッフが驚いた表情を浮かべました。


「209号室……ですか?」彼は明らかに戸惑いながら答えました。

 

「当館には209号室はありませんよ」


私は混乱し、昨夜受け取った鍵を見せました。

 

鍵には確かに「209」と記されていましたが、男性は首を振り、「それは208号室の古い鍵です。当館には20年前から209号室は存在していません」と説明しました。


さらに話を聞くと、20年前に209号室で宿泊者の失踪事件があったというのです。

 

その事件を境に、部屋は封鎖され、廃室扱いとなったとのこと。

 

私たちが泊まった部屋がどこだったのか、スタッフの説明では埒が明きませんでした。


帰宅後、私は209号室のことが気になり、さらに調べてみました。

 

そこでいくつかの怖ろしい事実を知ることになります。

 

そしてその中の一つに失踪事件の記述がありました。

 

失踪事件の被害者は女性で、事件当時の宿泊記録には「助けて」という文字が書き残されていたというのです。

 

さらに、その後も209号室を利用した客が体調を崩したり、不思議な体験をしたという噂が絶えなかったため、旅館側が部屋の存在を隠すようになったとのことでした。


一緒に宿泊した友人たちにも話をしましたが、彼らは209号室の出来事をほとんど覚えておらず、ただ「部屋がやけに静かだった」という印象だけを共有していました。


数週間後、私はその旅館に再び電話をして「209号室」について尋ねました。

 

しかし、電話口のスタッフは「当館には209号室という部屋は存在しません」と言うばかりで、話を進めることはできませんでした。

 

それ以来、私はその旅館に足を運ぶことも、古びた旅館に泊まることも避けるようになりました。


209号室が本当に存在していたのか、それとも私たちが見たものは何かの幻だったのか。その答えはわからずじまいです。

 

しかし、あの静けさ、深夜の音、そしてスタッフの反応を思い出すと、ただの偶然や気のせいでは済まされない気がします。


もしあなたが山奥の旅館を訪れる際、部屋番号が「209」だと言われたら、少しだけ慎重になった方がいいかもしれません。

 

それが、異界への入口でないと誰が断言できるでしょうか。

 

著者/著作:怪文庫【公式】(Twitter