これは、数年前に実際に体験した話です。
当時住んでいた家は築50年の二階建てで、特に曰くもない普通の家でした。
祖父と両親と一緒に暮らしていて、私はよく祖父の部屋に遊びに行っていました。
祖父は無口だけど優しい人で、行くたびに飴やチョコをくれました。よく祖父と庭を散歩して花や木の手入れをしていたことを覚えています。
両親が共働きで一緒に過ごす時間が長かった私は、祖父が亡くなった時には酷く落ち込みました。
お葬式が終わっても悲しみが癒えなかった私は、少しでも祖父の思い出に触れていたくて、その日は祖父の遺品整理をしていました。
庭に面した祖父の部屋は質素で、古い箪笥と布団くらいしかなかったのを覚えています。だからこそ、あの鏡を見つけた時は少し驚きました。
箪笥の陰に隠すように置かれていた、大きな姿見。
蔓の模様が彫られた立派な額縁に、古びた布がかけられていました。
祖父の部屋にこんなものがあったなんて、子供の頃は一度も気づかなかったんです。隠されていたから当たり前かもしれませんが。
興味本位で布を外すと、上半分――ちょうど顔が映るあたりが綺麗に割れていました。
最初に見た時は形見分けに欲しいとさえ思いましたが、割れてるならば形見にするには危ないし、仕方なく布を戻して私はそれを庭に運び出しました。
翌日、父がトラックで廃棄場に持っていく予定だったので、他の不用品と一緒に置いたんです。
外は既に夕方になっていました。
この鏡で片付けが一段落ついたので少し休憩していた時、突然強い風が吹きました。
その日は晴れていて、風なんてまったくなかったのに……。
あまりに強い風だったので、鏡に軽くかけていただけの布はあっという間に飛ばされていきました。
布は宙を舞うと、庭の木の高い枝に引っかかってしまいました。
脚立でもないと届かない高さで、どうしようかと思い鏡を見たその瞬間です。
鏡の中に、誰かが映っていました。
私じゃありません。顔は割れた部分で見えませんでしたが、グレーのズボンにチェックのポロシャツを着た男。
体調が悪いかのようにふらふらと鏡の中で左右に揺れていました。
それが、亡くなった祖父のよく着ていた服にとても良く似ていました。体格も正しく祖父のよう。
思わず、小さな声でつぶやきました。
「……おじいちゃん?」
人影はピタリと動きを止め、ゆっくりと前かがみになって鏡の向こう側からこちらを覗き込むような仕草を始めました。
訳が分からず様子を見ていた時、もう一度風が吹きました。
その瞬間、突然耳元で声がしました。
「……見るな……」
低く、しゃがれた声。少し怒っているような声でした。驚いて周囲を見回しましたが、誰もいません。
気のせいだと思い、もう一度鏡に視線を戻した瞬間、再び声が聞こえました。
「鏡を……見るな……」
その時、鏡の中の様子が変わっていました。
服はボロボロに破れ、手は黒ずんで腐ったように変色し、虫が這い回っていました。
先程見た時は、確かに人間の手だった筈なのに。
腐った手が鏡を叩き始めました。
バン、バン、と鈍い音が響き、鏡に亀裂が走っていきます。
鏡が割れてしまう!咄嗟に目を閉じた瞬間、大きな音を立てて鏡が砕け散りました。
破片が腕や顔に当たって痛みを感じましたが、しばらく動けませんでした。
暫くして目を開けると、鏡は粉々になって、フレームだけが残っていました。
茫然としていると、耳元でまた声がしました。
「鏡を……見るな……潰す……」
これが、私の体験した全てです。
両親に鏡のことを聞いても、「そんな鏡は知らない」と言われました。
もしかしたら昔亡くなった祖母の物だったかも?と言われましたが、本当の所は分からないとのことでした。
翌日、父は予定通り残ったフレームを廃棄場に持っていき、それで全部終わったと思っていました。
でも、あの日を境に、少しずつ視力が落ち始めたんです。
最初は疲れ目だと思っていたんですが、どんどん見えづらくなって、病院に行った時には「原因不明」だと言われました。
でも私には分かります。このまま失明する、と。
医者にも、両親にも、あの日起こったことは説明していません。
信じてもらえないのがわかっていたし、話したところでどうにもならないので。
それにしてもあの鏡に写ったものは何だったのでしょうか?今でも分かりません。廃棄してしまった今は分かる術もありません。
そして最後にもう一つ。あの日から、たまに同じ夢を見るようになりました。
あの姿見が、目の前に立っている夢です。
割れた鏡の中には、腐った手の人影がいて、同じようにゆっくりと前かがみになって鏡の向こう側からこちらを覗き込むような仕草をする。
そして顔が見えそうになった瞬間、目が覚めます。
すると耳元で声が聞こえるんです。少し怒ったような声で
「鏡を……見るな……潰すぞ……」
これを書いている今、視力はほとんど残っていません。
完全に見えなくなる前にこの話を投稿したいと思います。
きっと、そのうち“潰される”から。
著者/著作:怪文庫【公式】(Twitter)