数年前のこと。
私は、自分の会社の、北陸にある支社に単身赴任することになった。
東京の本社で大きな失敗をしての、いわゆる左遷だった。
当時、私には大学をめざす高校生の子供がふたりいたので、やけを起こして会社を辞めるわけにはいかなかった。だから、「地方で気分を変えてがんばろう」と自分に言い聞かせるしかなかった。
北陸では、アパートを借りることになった。
私は引っ越しに先だって北陸に入り、支社が懇意にしている不動産屋に、いくつかの物件を紹介してもらった。
が、最終的に決めたのは、そのとき紹介されたのとは別の物件だった。
支社から歩いて五分のところに建つ、小さな二階建てのアパートである。
部屋は外階段をのぼってふたつめの、202号室。
少し古めだが、2DKの部屋で、ひとりで住むには十分な広さだ。家賃も安い。同じ不動産屋が管理している。
ただ、不動産屋の担当者M氏が、微妙な顔をするのが気になった。
私は尋ねた。
「ここ、なにかまずいんですか?」
「いえ別に」
「たとえば、ほら、事故物件とか?」
「いやいや、そんなことはないです」
否定はするものの、なにかを隠しているようにも感じられた。
だが、引っ越しまであまり日にちもないし、私としては気に入ったので、そのアパートに決めたのだった。
翌週、引っ越し作業を終えた私は、支社へあいさつに行った。
総務のTさんに引っ越し先を告げると、そこでも微妙な顔をされた。
「なにかあるんですか、あそこ?」
しかしそこでも「別になにも」と否定されただけだった。
なんだか釈然としないながらも、新生活をおくりはじめた私。
小さな異変は、それから一週間ほどしてはじまった。
まず、ドアのノック。
夜の十時ごろ、玄関のドアをノックする音がする。
(いまごろ、だれだろう?)そう思って、玄関まで行って、ドアスコープを覗くのだが、外にはだれもいない。
念のためドアをあけてみたが、だれも立っていない。外廊下に出て左右を見てみたが、誰かが去っていく様子もなかった。
そんなノックが、最初は一晩に一回だけだった。
それが日を経るにつれ、少しずつ増えていった。
ノックの音がする。玄関に行って、外にだれもいないことを確認し、部屋にもどる。またノックの音がする。また確認する。またノックの音が……。そんなことの繰り返し。
(くそ、だれのいたずらだろう?)といらだちがつのっていた。
そんなある日、今度は妙な冷気を感じるようになった。
ノックの音がしたと思ったら、うなじのあたりを冷たい隙間風が通り過ぎていく感じがする。そして、そのとき、なんだか嫌な感じがするのだ。
そんなことが二日、三日と続いた。
(ここ、やっぱり、いわくつきの部屋なんじゃないか?)そう思って、もう一度不動産屋を訪ねた。
「あそこ、本当は、なにかあったんでしょ?」
今度は決めつけるようにそう訊いた。
しかし、担当のM氏は「いえ、なにもないです」ときっぱり否定した。
「事故物件だったら、わたしら、お客さんに告知する義務があるんです。事件なんて、本当になにも起こってないんですよ」
そう言われると、引き下がるしかなかった。
私は、今度は会社で訊いてみることにした。
以前、総務のTさんは、私があのアパートに引っ越したと聞いたとき、妙な顔をしていた。彼ならば、なにか知っているのではないか。
昼食を奢るということで、Tさんを外へ連れ出し、バカ話で場をなごませてから、おもむろに切り出した。
「いま、私が住んでいる部屋、なにがあったんです?」
Tさんは、うーん、とうなったあと、あきらめたように、
「事実かどうかわかりませんよ。あくまで噂にすぎないのですが」
とことわった上で、こんなことを教えてくれた。
あのアパートから歩いて十分ほどのところに、けっこう広い公園がある。そこは夜になるとあたりの人通りが少なくなる、淋しい場所だ。
いまから十年ほど前のこと。
夜、会社帰りの女性がその近くを通りかかったとき、不審者につかまり、公園内につれこまれた。
女性は性的暴行を受け、頭を打って意識を失った。
翌朝、公園を散歩した人が女性を発見し、警察に通報。女性は病院に救急搬送されたが、意識不明の重体。手当のかいもなく、ひと月後に死亡した。
警察は目撃者を探した。
すると、当日の、事件があった時刻に、公園のそばを通りかかった男性がいたことがわかった。
市内の私立高校に勤める教師のAさんである。
Aさんは公園から走り去る男のうしろ姿を目撃していた。公園内の物陰で女性のうめき声がするのも耳にしていた。
しかし、毎日夜遅くまで仕事をして、くたくたに疲れていたAさんは、それらのことにさして関心も持たず、そのまま自宅のアパートに帰ったのだった。
結局、犯人は捕まらなかった。
被害者の女性の家族、とりわけ母親が憤った。
Aさんがそのとき、うめき声のする物陰を見ていてくれたら、あるいは男を怪しんで呼び止めたり、警察を呼んでいてくれたら、そしたら娘は助かっていたのではないか?
そう考えた母親はAさんを恨み、執拗につけまわすようになった。
アパートを訪ねて、ドアをノックする。無視されても、何度でもノックする。Aさんが学校に行くと、学校まで追ってくる。学校の中まで押しかけてくる。
そんな母親の迷惑行為のせいで、Aさんはとうとう学校をやめざるをえなくなり、故郷へ帰ったという。
同じころ、被害者の家族も引っ越していった。Aさんを執拗に追いかけて行ったのか、そこまではわからない。
そして、Aさんが住んでいた部屋というのが、いま私が住んでいるアパートの202号室なのだという。
説明が終わると、Tさんは言った。
「だから、あの部屋でなにか事件があった、ということではないんです。女性があの部屋で暴行された、というわけではないし、恨みを抱いた母親が、あの部屋でAさんを殺した、というわけでもない。あの部屋に住んでいたAさんが、筋違いの恨みを受けた、という、ただそれだけなんです。それでも、その母親の恨みの念でもこもってしまったんでしょうか、なにかと奇妙なことが起きるらしくて、あの部屋に越してきた人が長くは居つかない、という話はよく聞きますよ」
そういうことか、と私はうなった。
それから一息つくと、思いついたことをTさんに尋ねた。
「こういうときって、とりあえず拝み屋というんですか、そういった人に、除霊とか頼んだりしないんですかね?」
するとTさんは「ああ、それなら」と答えた。
「実は、ぼくの伯父が坊さんをやっていまして、以前、頼まれてあの部屋の除霊をしたそうです。どうします? 話、聞いてみますか?」
「はい、ぜひ」
うなずいた私は、翌週、菓子折りを持って、Tさんの伯父さんのお寺を訪れた。
伯父さんというのは、恰幅のよい、人のよさそうなお坊さんだった。
私が今住んでいるアパートのことを話すと、お坊さんは苦笑した。
「ああ、あれはね、なかなかうまくいかないくてね。ビミョーな部屋だったんです」
「ビミョー、とは?」
「たとえば、悪い霊がとりついている部屋を、クロとします。で、何もとりついていない部屋を、シロとします。するとね、あの部屋は、灰色なんですよ」
「はいいろ?」
「そう、灰色です。悪い霊とか怨念が、ついているとも、いないとも言えない。なんともビミョーなところでね。一応、除霊はしてみたんですが、暖簾に腕押しとでも言いますか、うまく祓えなかったんですよ」
お坊さんはそう言って、また苦笑いした。
結局のところ、私は、早々にそのアパートを引き払うことにしたのだった。
著者/著作:怪文庫【公式】(Twitter)