俺の地元には、駅前に短い地下道がある。
正式名称なんて誰も知らなくて、みんなただ「駅下のトンネル」って呼んでた。
全長はせいぜい20メートル。地上の信号待ちを避けたい人だけが使うような、地味で、誰も気に留めない場所だった。
毎朝、駅に向かう途中でそこを通っていたのは、時間の都合だった。
横断歩道より少しだけ早い。その地下道を通れば、5分早く電車に乗れる。だから、俺は高校に入ってからずっと、そのルートを使っていた。
最初にその「おばあさん」を見たのは、たぶん冬のはじめだったと思う。
吐く息が白くなるような、空気がやたら乾いている朝だった。
その日はたまたま、いつもより数分早く家を出た。
地下道に差し掛かると、向こう側から誰かが歩いてきた。
ゆっくりと、小さな車輪の音を軋ませながら。薄灰色の帽子をかぶった小柄な老人で、カートを引いていた。足取りがやたらと重くて、体の軸が左右に揺れていたのを覚えている。
すれ違いざまに挨拶でもしようかと思ったが、その顔を見た瞬間、なぜか喉が詰まった。
表情が、妙だったんだ。
笑っているのでも、怒っているのでもない。何かを思い出すような顔。なのに、目だけがまっすぐ俺を見ていた。口元だけがほんの少し動いていたけど、声は聞こえなかった。
俺はそのまま立ち止まらずに通り過ぎ、地上に出た。
奇妙だったのは、階段を上がったあとに何気なく振り返った時だ。
もう、誰もいなかった。
まあ、おばあさんが足早に行ってしまっただけかもしれない。そう思って、その時は深く考えなかった。
けど、その翌日も、またその翌日も、まったく同じ時間、同じ位置に、おばあさんはいた。
毎日同じ服、同じカート、同じ歩き方。すれ違う位置までまったく同じ。そして、やっぱりすれ違った後に振り返ると、誰もいない。
5日目の朝、俺は意を決して、すれ違った瞬間に足を止めて後ろを見た。
いた。
だが、その姿に、俺はぞっとした。
おばあさんは、こちらに背を向けたまま、壁に向かって歩いていた。いや、違う。歩いているんじゃない。「沈んで」いたんだ。
コンクリートの壁の中に、肩まで入り込んでいた。まるで水の中にでも入っていくみたいに、音もなく、ゆっくりと。
俺は金縛りにでもあったみたいに動けなかった。ただ、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
目をそらせずに見ていたら、最後に見えたのは、カートの中身だった。
ぬいぐるみか何かが入っていたと思ったけど、それが「人の頭の形」に見えた瞬間、ようやく足が動いた。
俺は半ば走るようにして階段を駆け上がり、地上に出た。心臓がひどく早く打っていた。
その日、学校ではずっと気分が悪く、頭のどこかで「見間違いだ」と言い聞かせていた。
でも、それから地下道を通るのが怖くなり、遠回りして地上の信号を使うようになった。
1週間くらいしてからだったか。母親と夜に話す機会があって、俺はふとその体験を話した。
すると、母が急に真顔になって、押し入れから古い新聞の切り抜きを持ってきた。
それは20年前、ちょうどその地下道のすぐ近くで起きた交通事故の記事だった。
「高齢女性、歩行中に軽トラックにはねられ死亡。荷物カートごと、下水の排水溝に吹き飛ばされる。発見は翌日」
見出しを読んだ瞬間、背中に冷たいものが走った。
写真が載っていた。白黒の小さな写真だったが、たしかに俺が見たおばあさんと似ていた。というか、ほとんど同じだった。帽子の形、顔の輪郭。記憶の中の顔と一致していた。
母によると、その事故以来、あの地下道は「縁起が悪い」と噂されて、一時期は通行禁止になっていたらしい。地下道の出入り口に花が置かれていた時期もあったとか。
それからは完全に地下道を避けた。怖かったし、もう関わりたくなかった。
けど、ある日、同級生と待ち合わせのため、うっかり近道としてその前を通ってしまった。
午後の3時半くらいだったと思う。日は少し傾いていたけど、まだ明るかった。
地下道の入口で立ち止まった俺は、なんとなく、そこに立つこと自体がまずいような気がして、視線だけを通路の奥に向けた。
そしたら、いたんだ。地下道の奥に、おばあさんが。こちらに背を向けて、壁に手を当てていた。何かを探るように、ゆっくりと撫でている。
その瞬間、背中の方で「ガラガラッ」というカートの音がした。
振り返ると、誰もいなかった。でも、確かに、コンクリートの地面には濡れたようなタイヤの跡が数メートル続いていた。
俺はもう無理だと思って、その日は友達との待ち合わせもキャンセルし、タクシーで帰った。
それから何年も経って、あの地下道は再開発で取り壊された。今はガラス張りの歩道橋に変わっている。便利にはなったが、あの場所にあった異様な気配は、消えたのだろうか。
最後に──あの日見た「カートの中の頭」、あれは本当に見間違いだったのか?
それとも、おばあさんと一緒に、もう一人“何か”があそこにいたのか。
考えてもわからないし、もう確かめようとも思わない。
ただ、ひとつだけ言えるのは、あれは人間じゃなかったということだ。それだけは、確かだ。
著者/著作:怪文庫【公式】X(旧Twitter)