2011年、3月11日。俺は大学を卒業したばかりで、春から東京の印刷会社に就職が決まっていた。そんな折に、あの東日本大震災が起きた。
あまりに衝撃的な映像が連日テレビから流れ、ただ家でニュースを眺めているのが苦しくなっていた俺は、社会人になるまでの短い空白を使って、ボランティアとして被災地に行くことを決めた。
向かったのは宮城県の気仙沼市。
大学時代に通っていた仙台から近く、知人のつてで受け入れてもらえた。
避難所の手伝い、物資の仕分け、倒壊家屋の清掃……どれも生々しい作業ばかりだった。とにかく“人の痕跡”が、家の形ごと押し流された現場にはたくさん残っていた。
冷蔵庫に貼られた家族の写真、ランドセル、婚礼写真、賞状、炊飯器にまだ残る米。
俺は、何かを踏みしめるたび、そこに誰かの人生があったのだと思って胸が苦しくなった。
ある日、別の班と合流して、町外れにある一軒家の片づけに入った。
小さなブロック塀で囲われた平屋で、海までは直線で300メートルくらい。津波は完全に家の中まで入っていた。
家の裏手、崩れた物置小屋のあたりを掃いていた時、不意に誰かが呼ぶような声がした。
「うー……ん……かえ、して……」
最初は風の音かと思った。
でも、俺のすぐ耳元、右耳の内側から直接話しかけられたような、そんな感覚があった。あまりに近くて、思わず肩をすくめて振り返ってしまった。
だが誰もいない。
近くで作業していた青年に「今、誰か何か言った?」と聞いてみたが、「いや? 何も聞こえませんでしたよ」と首を傾げられた。
それでも俺の耳には、あのこもったような、そしてかすかに複数の声が重なったような音が、ずっと残っていた。
その日の夜、俺は避難所の仮設テントの中で眠っていた。
深夜2時頃、急に“湿った風”がテントの内側をなでるように吹き抜けて、目が覚めた。
周囲は静まり返っていた。星空が澄み切っている。簡易トイレに行こうと外に出た瞬間だった。
耳の奥に、さっきと同じ声が、もっとはっきり聞こえた。
「かえして……かえして……いるんでしょ……」
今度はひとつじゃない。
女の声に、年老いた男の声、そして子供のような甲高い声が重なっていた。
しかもそれが、まるで“イヤホンの右側からだけ聞こえるラジオ”みたいに、右耳だけを貫いてくる。
「うしろ……」
全身が凍った。背中が汗で冷たい。
けれど、背中から誰かが顔を寄せているような気配が確かにあった。
恐怖で動けずにいると、肩のあたりがすっと冷たくなり、何かに指で撫でられたような感触が走った。
ゆっくりと、首を回して後ろを見た。
そこに、フェンスの向こうに立つ白い影があった。
長い髪の女のようだった。
だが、違和感があった。身体は海に向かっているはずなのに、顔だけが真横にねじれたようにこちらを向いていた。
表情は見えない。輪郭がぼやけていて、まるで波のように揺れていた。
翌日、その家の裏手で女性の遺体が見つかった。
作業に来た別班が、崩れた物置の隙間から引き上げたという。俺が“声”を聞いた場所だった。
地元の男性が話してくれた。
「そこ、老夫婦が住んでたんですよ。おじいさんの遺体はすぐ見つかったんだけど、おばあさんの方は行方不明でね。ご主人が生前、“何があっても迎えに行く”って、よう言うとったらしいわ」
俺は返す言葉もなかった。
きっと、あの“声”は、本当にそこにいたのだ。
⸻
帰京して数週間後、引っ越し前に仲の良かった大学の友人と飲みに行った。
居酒屋で一段落ついた頃、「そういえばさ」と、俺はスマホを取り出し、気仙沼での活動中に撮った何枚かの写真を見せた。
瓦礫の中、笑顔のボランティア仲間たちと肩を並べて写る集合写真。背景は海とフェンス。風は強かったけど、空はどこまでも晴れていた――はずだった。
「……なあ、これ……」
画面を覗き込んでいた友人が、急に顔を曇らせた。
「この後ろ、誰かいる……?」
言われてよく見ると、写真の右端――俺のすぐ背後のフェンス沿いに、ぼんやりと白い何かが写っていた。
最初は照明の反射かとも思った。だが拡大すると、肩のような膨らみ、細い首、そして輪郭がぼやけた頭部が見えてくる。
顔は判然としない。だが、頭部だけが明らかにこちらを向いている。体は海の方へ向いているのに、顔だけ、ありえない角度で。
気づけば、俺はスマホを持つ手に汗をかいていた。
「……冗談だろ。こんなん、誰かの影とか、偶然だよな」
声が震えないように気をつけながらそう言ったが、写真はすぐに削除した。それ以降、あの写真のことは誰にも話していない。
東京での仕事が始まってしばらくしてからだった。
最初は、疲れているせいだと思っていた。
夜、帰宅してシャワーを浴びたあと、ベッドに横になると、部屋のどこかから“湿った空気”が流れ込んでくるような気配がする。
エアコンは止めている。窓も閉まっているのに、空気だけがじっとりと動いていた。
耳を澄ますと、かすかに、風の音に混じって「かえして……」という声が聞こえるような気がした。
最初は気のせいだと思っていた。だが、ある夜、声がはっきりと右耳に響いた。
「そこに、いるんでしょ……」
跳ね起きた俺は、部屋の電気をつけ、キッチンや風呂場、トイレまで確認したが、もちろん誰もいない。
それからというもの、特に深夜2時過ぎになると、決まってあの声が近づいてくる。
ある日、洗面所で顔を洗っていると、ふと鏡の中に違和感を覚えた。
自分の姿が映っている。だが、影がふたつある。
洗面台の上に伸びる、自分の影とは別に、もうひとつの黒い輪郭が背後に揺れていた。
肩の高さが微妙に違う。首が、不自然に傾いている。照明の位置の問題かと思ったが、何度位置を変えても“そいつ”は消えなかった。
あるときは、自分の影が“くるり”と動いた気がして、思わず振り返った。
何もいない。
けれどその夜から、右肩に“重さ”を感じるようになった。まるで誰かが、ずっとそこに寄り添っているような、じんわりとした重み。
引っ越そうかと本気で考えた夜がある。だが、きっかけになったのは、ある夢だった。
俺は海沿いの、あの家の前に立っていた。
ドアは開いており、中から湿った空気と土の匂いが漂ってくる。誰かが中にいる。
「おばあちゃん……?」と、自分でも意図しない言葉が口から出た。
奥の部屋に、白い服を着た女が立っていた。振り返るその顔は、のっぺらぼうだった。
目がない、鼻もない。ただ、口だけが異様に大きく開いていて、声ではなく“風の音”のようなうなりで「かえして……」と響いた。
目が覚めると、右耳がじんじんと痛かった。
それ以来、俺は深夜2時以降は絶対に鏡を見ない。耳栓をして寝る。部屋の隅の影が揺れていても、決して振り返らない。
もう、何かが“憑いている”のだと気づいている。
たぶん、気仙沼のあの家で、俺は“誰かを見てしまった”。
返せるものがあるのなら返したい。でも、何を返せばいいのかが分からない。
著者/著作:怪文庫【公式】X(旧Twitter)