怪文庫

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古いビルのエレベーター

私がこの出来事を経験したのは、もう数年前のことになります。


当時、私はアルバイトで深夜のオフィスビルの清掃業務を請け負っていました。


都内にあるかなり年季の入ったビルでした。昼間はそれなりに人の出入りがあるのですが、夜中になると人気が全くなくなり、それがまた、何とも言えない不気味な雰囲気を醸し出していました。

 

そのビルには、古いエレベーターが二基ありました。ガタガタと音を立てながらゆっくりと昇り降りするエレベーターで、正直なところ、いつ止まってもおかしくないのではないか?と、いつも内心ヒヤヒヤしていました。


清掃作業は毎回深夜の12時から朝の5時までで、基本的には私一人で行っていました。フロアごとにゴミを回収し、床を拭き、トイレを清掃する、決まったルーティン作業でした。

 

異変が起きたのは、清掃を始めてから半年ほど経った頃のことでした。


その日はいつも通り、最上階の10階から清掃を始めワンフロアずつ階下へと降りていく予定でした。


10階の清掃を終え、エレベーターを呼びました。チーン!という気の抜けた音がして、古びた扉が開きます。いつもエレベーターの中は薄暗く、埃っぽい匂いがします。


慣れた手つきで「9」のボタンを押しました。

 

エレベーターはゆっくりと下降を始めたのですが、いつもよりガタつきがひどいように感じられました。気のせいか?と思っていた矢先、9階に到着する前に、突然エレベーターがガクンと大きく揺れて停止しました。

 

一瞬、心臓が止まるかと思いました。

 

真っ暗なビルの中で、私一人。


携帯のライトを点けて、非常ボタンを探しました。

 

非常ボタンを押してみましたが、うんともすんとも言いません。何度も試しましたが、反応はありませんでした。インターホンも試しましたが、これも全く繋がりません。

 

完全に閉じ込められたことを理解するのに、そう時間はかかりませんでした。

 

 

しばらくはパニック状態でしたが、そのうち冷静になろうと努めました。きっと一時的な故障だろう。そう自分に言い聞かせました。


何より携帯の電波も通じていたので、最終的にはこれを使えばいいや、なんて思っていました。

 

その時、エレベーターの中が一瞬だけ妙な匂いに包まれたのです。古い図書館の埃っぽい匂いと、土の匂いが混ざったような…


次にエレベーターの照明が、ゆーっくりと消えていきました。非常灯だけが頼りでしたが、それもだんだんと暗くなり最終的には全く見えなくなりました。本当に、真っ暗。

 

恐怖で体が震え出しました。携帯のライトを点けようとしましたが、なぜかボタンが反応しません。バッテリー切れかと一瞬思いましたが、先ほどまでは使えていたはず…。

 

完全に状況を把握できなくなり、恐怖もあって私は壁にもたれかかって座り込みました。

 

それからどれくらいの時間が経ったのか、全く分かりませんでした。時間の感覚が完全に麻痺していました。

 

すると、突然何かがエレベーターの外側を擦るような音が聞こえてきたのです。


ギギギーー、とまるで爪で壁を引っ掻いているような、そんな音でした。

 

音は徐々に大きくなり、エレベーターの周りをぐるぐると回っているように感じられました。

 

私は息を殺して、その音に耳を澄ませました。音は不規則で、時には止まったり、また始まったりします。

 

まるで、何か生き物がエレベーターの周りを這い回っているような……そんな想像が頭をよぎり、背筋が凍りつきました。

 

そのうち、音が止みました。静寂が戻ってきたのですが、それがまたとてつもなく不気味でした。


何かを待っているような、そんな嫌な沈黙です。

 

そして、今度はもっとはっきりと、エレベーターの扉の向こうから誰かの低い唸り声が聞こえてきたのです。

 

「うぅぅ……」

 

男の声でした。

 

苦しんでいるような、あるいは何かを訴えているような、そんな唸り声です。私は思わず耳を塞ぎました。


こんな夜中にこのビルに私以外に誰かがいるなどありえません。清掃員は私一人ですし、他に夜間作業の人間などいないはずでした。

 

唸り声はしばらく続いた後、ピタッと止まりました。

 

そして次に聞こえてきたのは、なにかしら重いものが引きずられるような音。

 

ズル、ズル、と床を擦るような音です。それがエレベーターの扉に近づいてきます。

 

次の瞬間、エレベーターの扉の隙間から僅かな光が漏れてきたのです。


それは最初は一筋の細い光でしたが、それがだんだんと広がり最終的には扉全体が淡い光を放ち始めました。


その光は青みがかったどこか非現実的な色でした。

 

そしてその光の中に、何かの影が映り込みました。


それは確か人間の形をしていましたが、妙に細長く、関節が逆方向に曲がっているような、不自然な影でした。


その影はゆっくりと蠢き、まるで扉の向こう側から私の様子を伺っているかのように見えました。

 

私はもう何も考えられませんでした。ただ、体が震え続けるばかりです。


すると突然、エレベーターがガタンと大きく揺れて、また上昇し始めました。先ほどのガタつきとは比べ物にならないくらいの猛スピードで、制御不能になったかのように昇っていきます。

 

「うわああああ!」思わず叫んでしまいました。


エレベーターは猛スピードで昇り続け、やがて、ガクンという衝撃と共に停止しました。

 

 

ゆっくりと扉が開きます。そこには全く見覚えのないフロアが広がっていたのです。

 

私がいたのは10階建てのビルだったはず。


しかし目の前に広がる景色は、今まで見たことのないものでした。フロア全体が薄暗く、壁には蔦が絡みつき、天井からはブラブラと根のようなものが垂れ下がっています。


空気はひどく湿っていて、カビ臭いような、何かが腐ったような匂いがしました。

 

目の前には、錆びついた金属製の扉がいくつも並んでいて、その全てに無数の鍵穴が開いています。


そしてその扉の一つ一つから、かすかに人の話し声が聞こえきました。


それは普通の会話ではありませんでした。ブツブツと何かを呟くようなそんな声がいくつも重なって聞こえてきます。

 

私は恐怖で動けませんでした。ここがどこなのか全く理解できなかったのです。


元のビルに戻りたい!そう思って、エレベーターの中に戻ろうとしたその時、背後から冷たい吐息が首筋にかかりました。

 

ゾワッとした感覚に襲われました。恐々とゆっくりと振り返るとそこには誰もいません。でも確かに何かいた。それは間違いない。

 

私はパニックになり、目の前の景色から逃れようと必死にエレベーターのボタンを手当たり次第に押しまくりました。


でもどのボタンを押しても全く反応しません。


すると、再びあの低い唸り声が聞こえてきました。今度はもっと近い。すぐ後ろにいるのではないかと思うほどはっきりと。

 

「うぅぅ……おま……えも……」

 

背後から聞こえてきた言葉に私は全身の血の気が引きました。その声はまるで喉の奥から絞り出すような、苦しみに満ちた声でした。

 

次の瞬間、私の目の前にあった錆びた扉の一つがゆっくりと内側から開いたのです。


中から漏れてくる光は蝋燭の炎のように揺らめいていて、その光の中に無数の目が輝いているのが見えました。


全てが真っ黒な瞳で、ギラギラと私を見つめています。私は絶叫しそうになりましたが声が出ませんでした。それだけでなく全身が金縛りにあったかのように動きません。


無数の目が私を見つめ、扉の奥からさらに多くの影が蠢き始めるのが見えました。

 

その時のことです。


突然エレベーターが再びガクンと揺れて扉が閉まり、激しい速度で下降を始めました。


どれくらい落ちたのか分かりません。まるで奈落の底に落ちていくような、そんな感覚でした。


そして、ドンッ!と大きな音を立ててエレベーターは停止しました。

 

扉が開くとそこには見慣れたビルの1階のエレベーターホールが広がっていました。


真っ暗だったはずのホールには、清掃中に点けていた照明が明るく輝いています。それはいつも通りの見慣れた風景でした。

 

 

私は最後の力を振り絞ってガクガクと震える足をなんとか動かし、文字通り転がり出るようにエレベーターから飛び出しました。


清掃道具は全てエレベーターの中に置き去りにしてしまっていました。


私は清掃を途中で放棄してそのまま家に帰りました。家に帰ってからも、恐怖と動揺で一睡もできませんでした。

 

次の日、清掃会社に電話して仕事を続けることができないと伝えました。理由については適当なことを言ったと思いますが、今となっては覚えていません。


ただその日のことは伝えませんでした。正直にあの体験を話しても誰も信じてくれなかったでしょう。

 

あの日のあの経験はなんだったのか?そしてあの奇妙なフロアは一体どこなのか。あの唸り声と、扉の奥にいた「何か」は、一体何だったのか。

 

今でも時々、あの時のことを思い出して体が震えます。夢に出てくることもあります。

 

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