怪文庫

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夜を彷徨う足音

私が大学二年の春、住んでいたのは地方都市の古いアパートだった。

 

二階建ての木造で、壁も床も驚くほど薄く、隣のくしゃみまで聞こえるような場所だ。

 

月三万円という破格の家賃に惹かれ、迷わず契約したが、後になって「安いには理由がある」と痛感することになる。


私の部屋は二階の突き当たりで、隣には同じ大学に通う女性が住んでいた。

 

年齢は一つ下。小柄で黒髪をいつも一つにまとめ、化粧っ気もなく地味な印象だった。

 

廊下ですれ違えば会釈を交わす程度で、特別な交流はなかったが、彼女は礼儀正しく、感じの悪い人ではなかった。


ところがある時期から、夜中に妙な音で目を覚ますようになった。


「トン、トン、トン……」


深夜二時を過ぎたころ、廊下を誰かが歩く音がするのだ。

 

最初は帰宅の遅い住人がいるのだろうと気にしなかった。だが足音は必ず私の部屋の前で止まり、しばらく動かなくなる。まるでドアの向こうで立ち尽くし、中を伺っているかのように……。


不気味だったが、ドアを開けて確認する勇気もなく、布団をかぶってやり過ごしていた。

 

翌朝廊下を見ても何も残っておらず、気のせいだと思い込もうとした。

 

だが数日間同じことが続き、さすがに我慢できなくなった。

 

ある日、私は隣の彼女に「夜中に変な音聞こえない?」と尋ねた。すると彼女は一瞬ぎこちない笑みを浮かべ、「私はぐっすり寝ちゃうから、全然わからないです」と答えた。

 

その時の表情がどこか硬く、わざと話を避けているように感じた。

 

 

ある週末の夜、友人たちと飲んで遅く帰った。午前一時半を回っていたと思う。アパートの廊下は電灯が切れて薄暗く、どこか湿った匂いが漂っていた。

 

部屋の前まで来たとき、私は息を呑んだ。


ドアの前にしゃがみ込む人影があったのだ。


近づくと、それは隣の彼女だった。乱れた髪、蒼白な顔。そして手にはカッターを握っていた。彼女はドアの隙間を覗き込むようにして動かない。


「……あの、大丈夫?」と声をかけると、彼女は肩を大きく震わせ、私を見上げた。

 

虚ろな瞳がぎらりと光る。


「……見ないで」


低くかすれた声でそう吐き捨てると、立ち上がって自分の部屋へ走り込んでしまった。

 

残された私は心臓が早鐘のように鳴り、背中に冷たい汗が伝うのを感じた。


その夜を境に、彼女を見かけなくなった。廊下で会うこともなく、部屋の電気も点かない。

 

ただ、あの「足音」だけは続いた。


二時を少し過ぎると、トン、トン、トン……と廊下を歩く音が近づき、私の部屋の前で止まる。

 

息を潜めて布団にくるまっても、気配は数分間消えない。やがてふっと静まり返り、また朝が来る。


怖くてできなかったが、ついに我慢できず、ある夜ドアスコープを覗いた。


足音が近づき、部屋の前で止まる。そこに立っていたのは隣の彼女だった。


髪は乱れ、瞳は焦点が合わず、片手にはまたカッターを握っている。

 

彼女は無言のままドアを凝視し、ゆっくりと顔を近づけてきた。

 

スコープ越しに視線がぶつかった気がして、私は飛び退いた。

 

心臓が喉から飛び出しそうだった。

 

(絶対にドアノブを回される……)


ただそれでも彼女はドアノブを回す事なく、やがて気配が消えた。

 

翌朝、恐る恐る廊下を見ても何の痕跡もない。ただ、私の部屋のドアノブに小さな傷がいくつか増えているのに気づいた。

 

まるで刃物でひっかいたような跡だった。

 

 

数日後、大学の掲示板に小さな張り紙が貼られた。


「〇〇さん(隣人の名前)が行方不明になっています。心当たりのある方は連絡してください」


私は愕然とした。最後に彼女を見たのは、ドアスコープ越しのあの夜だ。だが人に話せば、自分まで疑われるかもしれない。私は黙って張り紙を見つめるしかなかった。


警察も捜索したようだが、彼女は結局見つからなかった。

 

住人の間では「男と駆け落ちしたのでは」とか「実家に戻ったのだろう」と噂されたが、真相はわからないまま。私は耐えられず、数週間後にアパートを引き払った。


年月が過ぎ、私は別の街で就職し、普通の生活を送っていた。あの出来事も、記憶の奥に押し込めていた。


だがある日、地元詩で「未解決事件特集」が記載された。

 

その中で紹介された一人が、隣に住んでいた彼女だった。


彼女は精神的に不安定で、夜中に外を徘徊している姿を近所の人が何度も目撃していたという。

 

失踪当日も「包丁を持った若い女性が歩いていた」という証言が最後だった。


彼女の最後の姿写真を見て、私は震えた。私が夜な夜な目撃していたのは、ただの幻覚でも妄想でもなく、本当に彼女自身だったのだ。


その日以来、私は夜中にちょっとした物音がすると異常に敏感になってしまった。

 

廊下で誰かの足音がしただけで、背筋が凍りつく。


「トン、トン、トン……」


耳の奥であの足音がよみがえるたび、思う。


幽霊よりも恐ろしいのは、生きている人間の狂気だ。


そして今でも、眠りに落ちる前にふと考えてしまう。


もしあのとき、彼女が本当にドアを開けていたら。私は今ここに、生きていなかったかもしれない。

 

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