私には弟が一人います。四つ下の弟で、姉弟仲はまあそこそこ。
二人とも実家には住んでますが、弟はもう大学生ですから、同じ小学校に通っていた時みたいに一緒に遊ぶことはなくなりました。
家族で食事をする時には普通に楽しく会話をするし、お互いの誕生日にはおめでとうとLINEを送り合うような、ごく一般的な姉弟仲だと思ってください。
そんな普通の弟が……怖いと感じてしまうんです。
どうしてかって、それはこれから説明しますけど、とにかく私は弟が怖い。
暴力的だとか、サイコパスだとか、そういうことではないんです。そういうことではないんです……。
昔の弟は本当に、ただの小学生の子どもでした。私が小学校6年生、弟が2年生の夏の終わりに、彼は変わってしまったのです。
その日は夏休みの最終日近くでした。
自由研究が終わってなくて焦る気持ちを抱いていた、夏の終わりの午後1時。
母親は近所の親戚の家に行き、父親はDIYで使うとかなんとかで、木材だのスプレーだのを買いにホームセンターへ出かけていました。
私は「自由研究を終わらせなさい!」と親に叱られたのでお留守番。
弟は友達の家に遊びに行ったものの、急に予定が変わったとかで帰宅したので、家には二人きりでした。
宿題をする気にならなくて、いっそのこと昼寝でもしちゃおうかなと思った時、一階にいる弟が「ねえちゃーん」と私を呼びました。
私は二階の自室にいたのです。
「外が変!」と弟が言うので、私は自室の窓のカーテンを開きました。
何が変なんだろう?と思いましたが、理由はすぐにわかりました。
確かに静かすぎる……。
夏の終わりの午後1時に、誰の声も聞こえないどころか、犬の声も、鳥の声も、車のエンジン音も聞こえません。
いくらここが東京郊外の住宅街だからといって、こんなに静かなことがありえるでしょうか。
だいたいこの時間には向かいのお爺さんが縁側に座ってぼーっとしているのに、その姿も見えませんでした。
もう一度「ねえちゃーん!」と弟が呼んだので、私は慌てて一階に駆け下りました。
弟はリビングの窓から外を見ていて、「変だよね」と言いました。「空が変だよ」と。
私は窓越しに空を見上げて、一度は「普通じゃん」と言いました。ですが弟が「でも、赤いよ?」と首を傾げた時、はっと息を呑んで……気付きました。
夏の終わりの午後1時。青空が広がっているはずの時間帯に、何故か夕焼けが広がっています。
「おかしくなっちゃった!」と弟ははしゃいでいました。
彼がハマっているゲームが探索系のゲームだったからかもしれません。
「ねえちゃん、探検しよう!」と私の腕を引いた弟は、怖がるどころかむしろ楽しんでいるように見えました。
正直なところ、私の胸には恐怖と興奮が半々でした。
大人がいない世界、ちょっとおかしくなった世界。
子どもだけの探検、不思議な体験、規模の大きい間違い探し……。
小学生の認識では、精々そんなものだったからだと思います。
この現象がどれだけオカシイことなのか、正確には理解できていませんでした。
私達は手を繋いで、家の外に出てしまいました。
向かいのお爺さんはいません。隣の犬も犬小屋にいません。歩行者信号を確認する必要がないくらい、大通りにも車が走っていません。
ためしに近所のスーパーに入ってみると、店員さんも他のお客さんもいなくて……悪いこととは知っていましたが、万引きし放題の状態でした。
私はクッキーと冷えたコーラを、弟はグミとおもちゃの剣を。「探検するなら必要だから!」と、言い訳をして盗みました。
スーパーの外に出てから、どこに向かおうか少しの間悩みました。
ゲームであればNPCがそこらじゅうにいて、話しかけるとヒントをもらえます。ですがここには二人しかいないので、何をすべきかわからなかったのです。
とりあえず適当に歩き回ろうと結論を出し、近所の団地、中学校、駄菓子屋さん、レンタルビデオショップ、古本屋さん、お豆腐屋さん……。色んなところを冒険しました。
私達の最終目的地は、自分達が通う小学校です。そろそろ足が疲れてきたので、お花屋さんの角を曲がり、通学路に入りました。
その時です。「もうすぐ夜になるよ」と、後ろからいきなり知らない人の声が聞こえました。
振り返った先にいた人のことは、何故だかよく思い出せません。
人の形をしていました。けれど男だったか女だったか、子どもだったかお年寄りだったか。そんなざっくりした情報ですら思い出せないんです。変ですよね?
とにかくびっくりしてしまって、私と弟は動けなくなりました。
「夜になったら帰れないよ」
と、知らない人が言いました。
そういえば確かに、空がさっきよりも暗いような。
私は急に怖くなって、弟に「もう帰ろう」と言いました。けれど彼は「まだ学校を探検してない!」とゴネたのです。「ママもパパもいないんだから、夜に遊んでても怒られない!」と。
喧嘩を始めた私達を置いて、空がどんどん暗くなります。
幼かった私は、姉であるという責任を放棄して「もう知らない!帰る!」と叫びました。
すると誰だかわからない人が「その子は?」と弟を指さしたので、頭に血が上っていた私は「知らない!」と返しました。
弟は「わーん!」と声を上げて泣きました。
私は振り返って走りました。途中で一度振り返ると、弟は知らない誰かと手を繋いで、「わーん!」と泣き続けていました。
家について玄関のドアを開けるまで、私は心の中で何度も何度も「あとで弟を迎えに行こう」と思っていたはずでした。
冷たい麦茶を飲んで、気持ちを落ち着けて、母親と父親が帰ってきたら、事情を話して、学校についてきてもらって……。
……気が付いたら、私は自室にいました。
「ねえちゃーん」と私を呼ぶ声が聞こえます。
いつの間にか眠ってしまっていたようで、机の上の模造紙は白紙。自由研究は進んでいません。
時計は確か午後1時頃を指しています。
もう一度「ねえちゃーん」と声が聞こえたので、私はあくびをしながら階段を降りて行きました。
リビングには小学校低学年くらいの男の子がいました。
「誰?」と私が聞くと、その子は「は?ねえちゃんの弟じゃん」と答えました。ああそっか、そういえば私には弟がいたや。
その時の事は、なんだか寝ぼけてるのか、夢の中のような……詳しく思い出せないんですが……。そんなことを思いながら、弟の手が届かない場所にあるお菓子の箱を取ってあげたと思います。
これらの事を……すっかり忘れていたんです。
奇妙な世界を冒険をしたこと、知らない人に話しかけられたこと、弟を置いて帰って来たこと。家に着いた瞬間に私はそれらをすっかり綺麗に忘れてしまって、いつも通りの日常に戻り、これまで何の問題もなく大学まで卒業して、今の会社に入社しました。
そんな私があの夏のことを思い出したのは、ついこないだのことです。
家族のアルバムを母親と一緒に眺めている時に、小学校2年生頃の弟の写真を見て、あの冒険のことを唐突に思い出しました。
赤い空、誰もいない町、急に現れた知らない人。
そして、気付いてしまいました。
顔が違うんです。「私の弟」と、顔が違うような気がするんです。
母親は違和感を抱いていないようです。けれど私には、今の弟と写真の弟が別人に見えてなりません。
よく似てはいるけれど、左右を反転した顔のような、上手い画家が描いたイラストのような……。
単純に「成長したから」という理由では納得できない違和感が、私の中に生まれました。
今でも「ねえちゃん」と弟が私を呼びます。
ただ、「ねえちゃん」という弟の言い方が、文字にするのは難しいニュアンスみたいなものが、私の記憶にある幼い弟の言い方とは違って聞こえます。
弟が知らない人に見えて、とても怖いと思ってしまいます。ですがこの恐怖心を気取られてはいけないってことを、理屈じゃなく、私はわかっていました。
今でも、私達は「普通の」姉と弟として過ごしています。
あの夏の冒険を彼と話したことはありません。
向こうから何かを言ってこない限り、私から話題に出すことはないでしょう。
家族仲は良好で、トラブルはなく、いたって「普通な」日常を今日も変わらず過ごしています。
ただ、毎日午後1時くらいになると、どうしても考えてしまいます。
私の「弟」は、本当に私の弟なのでしょうか。あの日まで私の「弟」だった子と、本当に同じ子なのでしょうか。
もし別人なのだとすると、この「弟」はいったい誰なのでしょうか。
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