怪文庫

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俺は夜勤の仕事をしていて、家に帰るのはいつも朝方になる。 


その日も、夜通し働いて体はクタクタだった。


普段なら帰りの道もぼんやり歩いてしまうのだが、なぜかその日は街灯に照らされた歩道の影や、車の排気音が妙に気になった。


朝方の街はいつも静かだが、今日は少し違った。小さな物音にすら神経が反応する。


「早く帰って寝たい」心の中で何度もそう思いながら、アパートの廊下を歩く。

 

自分の部屋の前に立つと、静かな廊下の空気がなぜか急に重く感じられた。


鍵を取り出し、ドアノブに手をかけた瞬間、部屋の中から声が聞こえた。


「おかえり」


女の声だった。小さく、でもはっきりと。


瞬間、俺は立ち止まった。


彼女が時々泊まりに来ることがあるから「ああ、夕べから来てたんだな」と思い自然にドアを開けた。

 

しかし、部屋は真っ暗で、靴もない。


台所の食器も、部屋の布団も、朝部屋を出た時のままで、人の気配は一切なかった。


電気をつけても誰もいない。


我に返った俺は部屋に入るしかなかった。

 

部屋の空気はいつもよりひんやりしていて、夜勤明けの疲れた体がますます重く感じる。


窓の外は朝日が少しずつ差し込み始め、外の世界は静かに目覚めているのに、部屋の中だけ時間が止まったようだった。


家具の角や壁の影が妙に大きく見え、息をするたびに部屋の中の静寂が微かに震える気がした。


シャワーを浴び俺は布団に入った。


さっきの声は何だったのだろうとぼんやり考えながら目を閉じると、いつの間にか眠っていた。

 

 

どれくらい寝たのかもわからない。そのうち、玄関のチャイムが鳴った。


布団から這い出そうと体を起こすと、ガチャガチャと鍵が開き彼女が入ってきた。


「おはよう」


と、いつも通り元気な声の笑顔があった。

 

その時、忘れていたさっき聞いた“おかえり”の声が頭に甦った。


確かに、彼女の声に似ていた。でも、あんなに低い声で、ゆっくり話す人じゃない。


語尾の響きも、息の抜き方も、間の取り方も、すべてが違った。


耳に残る違和感に、鳥肌が立った。


その声はしばらく頭の中で繰り返し響いていた。まるで誰かがそっと耳元で囁いているかのように、声が浮かんでは消えた。

 

部屋を改めて見渡すとが特に異常はなかった。


鍵も靴も帰ってきた時と同じ位置にある。もちろん家具も動いていない。


彼女は台所でご飯の支度をはじめていた。


彼女にその声のことを話したが、「気のせいだよ」と言って笑っていた。納得いかない俺は慌てて隣人に俺がいない間に誰かが出入りした形跡はないかと確認をしに行った。


しかし隣人は「誰も出入りした感じはなかったよ」と言った。


俺の頭には、再びあの声が頭に蘇ってきた。


何か、彼女の声を真似た“何か”が、俺の帰宅を迎えたのかもしれない。

 

数日後、忙しい日々であの声のことを俺はすっかり忘れていた。


その日も、クタクタになって朝方帰宅をした。


あの時と同じ重い空気に女の「おかえり」という声を思い出した。


俺は玄関の前で深呼吸をし鍵をさした。


「おかえり」


あの声だ。またあの声がする。


俺は怖くなって部屋には入らず、彼女の家に足を向けた。

 

翌日、朝方帰宅したがあの重い空気はなかった。


夜勤明けの疲れが心を重くし、部屋に入っても、布団に入っても何をしてても耳を澄ませてしまう。


誰もいないはずの部屋から、またあの声が聞こえてくるのではないかと考えてしまう。

 

今日も仕事帰りの彼女はいつも通りの笑顔で「おはよう」と言って部屋に来る。


俺はあの夜、聞こえた声が現実なのか気のせいだったのか分からなくなる。


夜勤の疲れや朝方の静けさが、俺にあの声を思い出させる。そしてあの女の声を忘れた頃にまた「おかえり」と聞こえてくる。

 

俺は、今日もまた、クタクタの体で帰ってくる。


朝方の静まり返った廊下を歩きながら、あの声を思い出してしまうのだ。

 

結局、俺は引っ越しをすることにした。


この部屋にいる限り、あの声から逃れられない気がしたからだ。


翌週、引越しの手続きをし荷物をまとめた。荷物をまとめながら、何度もあの低いゆっくりとした「おかえり」という声を思い出した。


心のどこかで、新しい部屋で、またあの声がまた聞こえたらどうしよう、静かに安心して眠れるだろうか、あの声は追いかけてこないだろうかという不安があふれていた。


しかし、引越しをした今でも、朝方クタクタに疲れて帰る日は、あの静かな重い空気と低いゆっくりとした声で「おかえり」と聞こえる気がする。


毎日来てくれていた彼女とは別れた。


もう鍵を開けて「おはよう」と入ってくる姿を見ることはないし部屋に帰った時に彼女がいることもない。


新しい部屋に引っ越してからあの声は聞いていたない。


だけど今でも、夜勤を終えて一人暗い部屋に帰るときは、どうしてもあの「おかえり」という声が聞こえたらどうしようという思いがわいてくる。


あの日の「おかえり」あれは一体、何だったのか。


誰の声だったのか。


今でもその不思議な現象の答えは出ていない。

 

著者/著作:怪文庫【公式】X(旧Twitter)