これは僕が大学に通うために、初めて部屋を借りたときのことです。
いくつかの不動産屋さんに案内してもらいましたが、大学の近くには古いアパートばかりでした。
正直に言うと、せっかくの大学生活なのに古臭いアパートには住みたくないと思っていたのです。
めぼしい物件も見つからず、半ば諦めかけていた頃のことです。ある不動産屋さんで、比較的新しいマンションを紹介してもらいました。
ただしその物件は、大学から見て駅の反対側。しかも駅から徒歩20分ほど離れた場所にあるとのことでした。
駅の反対側は少し寂しい雰囲気のあるエリアで、大学までは歩くと40分以上。最悪は自転車を買うことも想定しつつ、不動産屋さんと一緒にそのマンションを見に行くことにしたのです。
そこは3階建てのマンションで、部屋は2階の角部屋。可もなく不可もない、何の変哲もない1Kの部屋でした。
以前の住人は女性だったそうで、不動産屋さんから「綺麗に使われていますよ」と言われました。
実際に部屋を見せてもらいましたが、正直なところ、特別きれいかどうかはよく分かりません。ただ、白い壁とベージュのフローリングがどこか女性らしい印象を受けます。
クローゼットを開けたとき、中からほのかに柔軟剤の香りがしたので、その瞬間、確かに女性が住んでいたのだと実感しました。
“比較的きれいな部屋”ということ以外に特別なこだわりもなかったので、その日のうちに契約を決めました。
引っ越しを終えて、大学の授業も始まり、忙しい日々を過ごしていました。
ようやく週末になった金曜日の夜、溜まっていた洗濯を終わらせ、ベランダに干しました。
次の日は外出もせず一日中家の中でのんびり過ごし、夕方になって洗濯物を取り込もうとベランダに出たそのときです。
足元に、“藁人形”が落ちていたのです。
本物の藁人形を見るのは初めてでした。
その藁人形はまるで誰かが丁寧に編み上げたようで、雑さがなく、手芸作品のように整っているように見えました。さらによく見てみると、首の部分には赤い糸が何十にも巻かれ、頭と腹のあたりには“針”のようなものが突き刺さっていたのです。
昨夜、洗濯物を干したときにはこんなものはありませんでした。
ベランダの手すりに体を乗り出して周囲を見回しても、特に変わった様子はありません。
強いて言えば、マンションの前の道路が建物に近いため、もしかするとそこから投げ込まれたのかもしれません。
気味が悪かったものの、「こんなものを長く置いておけない」と思い、ビニール袋に突っ込んで捨ててしまったのです。
それからというもの、不定期ではありますが、たびたびベランダに藁人形が投げ込まれるようになりました。
ある日には、二つも落ちていることがあったのです。
最初の頃は“悪質ないたずら”だと思い、深く考えないようにしていました。けれど回数を重ねるうちに、夜になるのが怖くなり、ベランダのカーテンを閉めたまま過ごすようになりました。
それでも不意に外で音がすると、体がびくりと反応してしまうのです。
静かな夜ほど、異様なほどに時間が長く感じられました。
かなり神経が参っていたと思うのですが、誰が投げ込んでいるのかが分かりません。
誰に相談すればいいのかも分からず、ただ途方に暮れていた、そんなある夜のことです。
「ゴトッ!」
スマホを見ていた僕の耳に、ベランダから物音が聞こえてきたのです。
すぐに分かりました。また藁人形が投げ込まれたのだと。
すぐさま窓を開け、ベランダに飛び出しました。
やはり足元には藁人形が落ちています。
手すりに身を乗り出し、前の道路を確認しました。
しかし、そこには誰もいません。
何度見ても、人の気配すらありませんでした。
けれど、確かに藁人形は落ちています。
にも関わらず投げ込んだはずの人物は、どこにもいないのです。
月明かりは十分にあります。暗くて見落としたということは考えられません。
イライラが込み上げてきて、僕は両手で手すりを強く叩きました。
「バンッ!」という音と同時に、
「ゴトン」と背後から音がしました。
恐る恐る振り返ると、そこには、藁人形が落ちていたのです。
もちろん、例のあの藁人形。
もう一度、前の道路を確認しましたが、やはり誰もいません。
僕はゆっくりと藁人形を拾い上げ、顔を上げて天井を見上げました。
今でもあの光景は鮮明に覚えています。
ベランダの天井一面に、無数の藁人形がびっしりと貼り付けられていたのです。
それらは重なり合いながら、まるで僕を見下ろしているかのようでした。
しばらくの間、恐怖で身動きが取れませんでした。
その後すぐに部屋を引き払い、別のマンションへ引っ越しました。
引っ越し費用は不動産屋さんが全額負担してくれたので、金銭的な負担がなかったのは不幸中の幸いです。
しかし、どうして藁人形がベランダの天井に貼り付けられていたのかは、いまだに分かりません。
そして、なぜ気づかなかったのか……
また、不動産屋さんもどうして気づかなかったのか……
あれは、人生の中でもう思い出したくない恐怖体験です。
著者/著作:怪文庫【公式】X(旧Twitter)
