怪文庫

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日本軍が残した爆弾

私は、小学二年生になるまでの八年間を新宿の下町で暮らしていた。

 

その後、私たち家族は、父親の仕事の関係で大阪に移ることになった。


学生時代、私はあまり勉強が得意な方ではなかったが、大阪の高校から、当時新宿にあった某薬科大学を受験し、運よく合格することが出来た。

 

そんな私は薬剤師を目指すために、古巣の新宿に再び戻ってきたのである。


通う大学は、大久保駅から徒歩で十分ほどのところにある古い大学だ。

 

校舎は重厚感のある風情を醸し出してはいたが、それなりに老朽化も進んでいた。

 

私は新宿の百人町というところで生まれ、戦後の復興期の姿を見つめながら、子どもだった一時期をそこで過ごしていた。


当時、その周辺にはまだ戦争の爪跡が多少残っていて、幼心にも、何か周囲の雰囲気とは相いれないものを感じていたのである。


例えば、立ち入りが出来ないようにバラ線で囲われた内側に、たぶん爆撃によるものだと思われるが、朽ち落ちたコンクリート造りの建物が数棟、横一列に並んで残っている場所や、高さが三メートルぐらいはあったかと記憶しているが、灰色の塀に囲われたかなり広い場所があって、その中には鬱蒼とした木々に覆われるようにして、戦時中に使われていた何かの施設だったのだろうか、薄暗い感じのする建物が建ち並ぶ一帯が、まだ撤去されないままに放置されていた。


父親からは、これらの建物は戦時中に旧陸軍が何かのために利用していた施設の残骸だと、聞かされている。


また、この建物があった一帯のことを、近所の人たちはみんな「ギホン」と呼んでいた。

 

何故そう呼ぶのか、小さかった私には当然分からない。

 

当たり前のようにそう呼んでいて、特にそのことを疑問に感じることもなかったのである。

 

私は大学に通うため、新大久保駅の近くにアパートを借りていた。

 

そこからは昔住んでいた百人町も近く、懐かしさに誘われて何度か足を運んでいた。


しかし、新宿の膝元でもあり開発が進んでいて、当時の面影は殆ど残っていない。

 

当然、戦争の爪跡などは既にあろうはずもなく、都市計画に基づくインフラ整備が進み、新しい道路が何本も通っていた。

 

ギホンのあった場所も、明確には確認することが叶わなかった。


戦争に絡んだ幼い頃の記憶もあり、大学生となっていた私は、その周辺と戦争との関わりなどを、インターネットを使ってよく調べていた。


すると、百人町の東側で、西武新宿線を越えた辺りの戸山地区からは、かつて百体以上もの人骨が発見されていたのである。


その近くには、戦時中に細菌兵器などの研究を行っていて、人体実験をしていたことでも知られている関東軍731部隊の関連施設があったそうだ。

 

そうした背景から、発見された人骨については、731部隊が行っていた人体実験との関わりが指摘されている。

 

 

このように、この周辺は、戦時中に生物兵器などの開発に関わる極秘研究や実験が行われていた可能性が色濃く窺える。


そうした事実とも相まって、日本兵の亡霊の目撃情報や、深夜に不気味な呻き声が聞かれるなどの情報が散見される状況となっていて、心霊スポットとしても噂されている地域だった。

 

私は大学を卒業したのち、就職はせずに大学院の修士課程に進むことにした。

 

別に勉強がしたかったというわけではなく、まだもうちょっとだけ学生という身分でいたかっただけなのかもしれない。


研究室の教授が、新人の大学院生のために歓迎会を開いてくれた時のことだった。

 

私の座っている席の前にいきなり、私と同期の大学院生の一人が歩み寄ってきて「オレ、君のこと知ってるぜっ」と唐突に言ってきた。


私は、そいつに見覚えがなかったので不思議そうにしていると「○戸山小学校に通っていたことがあるだろ」と言うのである。

 

確かにその小学校には通っていたことがあったので、私を知っているというのは間違いではないと思い名前を聞いてみると、心当たりがあった。


小学生の頃に、ギホンの周りでよく一緒に遊んでいた竹内昇(偽名)だった。

 

あれから十五年以上も経っていたので初めは分からなかったが、よく見ると、彼の顔には当時の面影が薄らと残っていた。

 

私たち二人はその場で意気投合し、小学生時代の話で盛り上がった。

 

当然、彼もギホンのことはよく覚えていて、私と同様、彼もまた家族からギホンに纏わる話を聞かされていたのである。


彼の祖父は、第二次大戦中に原子爆弾の開発を進めていた理化学研究所・○科研究室のスタッフの一人だったらしい。

 

それで、その祖父から彼の父親がギホンについて聞いた話を、彼もまた父親から聞かされていたのである。

 

しかし、その内容というのが実に驚きだった。


○科研究室で行われていた原子爆弾の開発は、終戦前に中止されたと言われている。

 

しかし、実はこれが誤りだったというのだ。


当時、○科研究室では「熱拡散法」と「超遠心法」の二つの方法でウラン濃縮を進めていたが、超遠心法については公にされず、秘密裏に進められていたらしい。


本来、本命とされていた熱拡散法は、実現性が乏しいことがその後の研究で明らかとなり、確かに中止されているのだが、もう一つの超遠心法を採用した方法では、終戦前に原子爆弾の完成まで漕ぎ着けていたというのである。


その後、実戦での使用が検討されていたそうだが、制空権を完全に米軍に掌握されており、この原子爆弾で米国本土を攻撃することは不可能と判断された。

 

そして、この実戦計画の断念と共に開発された原子爆弾は、歴史の狭間の中にその姿を隠すこととなってしまったようだ。


原子爆弾の開発に携わっていた関係者たちの間では、ある噂が囁かれていたらしい。

 

それは、この使われなかった原子爆弾を、本土決戦の際には、帝都諸共米軍を殲滅するための玉砕兵器として使おうという構想であった。

 

その上、この構想は起爆の日時までもが決定され、作戦として実行に移されていたのである。


しかし、実際には広島と長崎以外では、我が国での原子爆弾による被災は起こっていない。

 

この不発となってしまった原子爆弾が、どうもまだ日本の何処かに眠っているらしく、ギホンのあった場所の何処かだと、生前、昇の祖父がそれとなく臭わせていたらしいのである。


その上、恐ろしいことに、この原子爆弾は何時爆発してもおかしくない状態に置かれているとのことであった。

 

昇とは大学院を卒業した後は交流もなく、今は音信不通である。

 

私の父親は既に他界しており、今ではこの話の真偽を確かめる術は残されていない。


この話を信じるか信じないかは、そう、貴方次第という訳です。

 

著者/著作:怪文庫【公式】(Twitter