怪文庫

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300番講堂

当時の私は、関東に所在する或る大学を辞めようか悩んでいました。

 

第一志望の大学に不合格となって、当初は浪人するほどの向学心もなく、渋々と「滑り止め」のつもりだった大学に進学していた私は、周囲の学生に馴染むこともできずにいました。

 

「滑り止め」の大学に通う学生は、まったく勉強しているようすもなく、偏差値七十近くになるまで必死に勉強していた自分からすれば、会話の水準も俗悪なものに感じられました。

 

要するに、私はまだ若くて、視野狭窄、自分の身の程もわからずまったく傲岸不遜だったのです。

 

ただ、当時住まいしていたぼろアパートに引きこもっていても、何にもなりませんから、私はあてどなくキャンパス内をうろつく毎日でした。

 

あれは確か、梅雨時の(北海道出身の私にとって、梅雨時というのは珍しい経験でしたが、ムシムシとした湿気で肌に張り付くシャツが鬱陶しく感じたものです)ことです。

 

三号館、というふだん出入りしない建物が妙に気になって這入ってみました。

 

無闇に曲線の多い、チョット昔のひとが考えた「近未来」みたいなデザインの玄関ホールで、四方はぐるりと教室になっているようです。

 

サーッという雨の降りしきる音が外からずっと聞こえています。

 

ホールを何となくうろうろして、さあ、もう出ようかと思いかけたときに、ふと半開きの鉄製らしい扉が目に入りました。

 

扉の向こうは大教室のようになっていて、ぽつりぽつりと学生が座っているのが見えました。扉の上には、古めかしいゴシック体で「300番講堂」と書かれています。

 

「何の講義だろう…」

 

そう思った私は扉のところで聞き耳を立てていました。

 

一般教養課程の学生が主のキャンパスですから、特定の学部の講義ということもなく、しばらく聞いていてもいっこうに要領を得ないのですが、どうも「運命論」とか「決定論」とか「宿命」とかいったようなことばが聞こえてきます。

 

いま思えば、哲学かなにかの講義だったのでしょうか。

 

何となく、本当に何となく、私はそろそろと教室に這入って、後ろから二列目くらいの席に腰掛けました。

 

「どうせ不本意に入学してしまった、程度の低い大学の講義だ」

 

と私は頭から軽蔑していたのですが(こんなことを思うこと自体、若気の至りと云うほかありません)、しばらく聞いておりますと、それは存外に難解であって、しかも興味を持てる講義だと感じたように記憶しています。

 

ほかの教室では学生が講義中にも騒いでいて、先生の云うことが聞こえないことも珍しくないような大学だったのですが、その教室の学生はみなシンとしていて、かりかりとなにかノートに書きつけているばかりなのです。

 

聞こえてくるものといえば、先生の声、チョークの音、降りしきる雨が建物に当たってぱちぱちという音だけ。

 

不思議と気持ちを惹かれた私は、毎週木曜日の五時限目になると300番講堂に通うようになりました。

 

三号館は、雨の降っていない日にもあまり日が差し込まず、何となくじめじめとしているような気がしましたが、ひんやりとして静謐な雰囲気が気に入りました。

 

何と云っても三号館はキャンパスの端の方に位置しており、外の俗悪な世界とは隔絶されており、ここに来ると私のこころは安らぐのでした。

 

天井近くのまん丸な窓ガラスから、木々の葉が見えているのが鮮明に記憶に残っています。

 

肝心の講義の内容は、あんなに熱心に聴講していた割には薄ぼんやりとしか記憶にないのですが、運命や宿命の存在を肯定する議論でした。

 

最初はソフォクレスの『オイディプス』というギリシア悲劇から説き起こして、西洋の近世哲学における充足理由律や因果論へと進み、自然科学的な原因と結果の概念にまで話は及びました。

 

いわく、宿命というものは確かにある。それゆえ、現出する物事には必ず原因が存在する。

 

しかしながら、現代では主に自然科学に代表されるような人間の知には限界があって、実際には『オイディプス』に登場した予言者テイレシアスのように宿命の全体を見通すことはできない。

 

見通せたとしても、宿命は絶望して自殺することさえ許さない。その者が死すべきかどうかということさえも宿命であらかじめ定められているからだ。

 

不完全な知をもつわれわれには、それゆえに、未知という歓びの余地が残されている。

 

実に「知らぬが仏(Ignorance is bliss)」という先人の言葉のとおりだ。

 

大体、このような話ではなかったかと記憶しています。

 

結局、ほかのくだらない講義はすべて切り捨てて、本来行きたかった大学への受験勉強をしつつ、着々と退学の準備を進めながらも、毎週木曜日の五時限目にだけはずっと座っておりました。

 

夏学期の最終講義の日、私は先生にお礼を云おうと講義の最後につと席を立ちました。

 

「先生、第一志望ではなかったこの大学に入学して、ぼくはまったくつまらない毎日だったのですが、先生のこの講義だけはとても興味をもつことができました。ありがとうございます。

 

実はもうここを中退して、別の大学に入り直すのにあと半年勉強をするのですが、先生にだけはお礼が云いたくて…」

 

と云うと、四十代くらいの先生は、下がった黒縁の丸眼鏡をくいと押し上げながら、

 

「そうだったのですか。もう、こちらには来なくなってしまうのですね。でも、それも宿命だったのでしょう。大丈夫です。君にはきっとまた会えます。

 

私の考えが正しければ、果てしない因果の連鎖の最果てまで宇宙が進んで行けば、最後の最後にすべてが巻き戻るのです。

 

全部の因果が逆向きに繰り返される。気の遠くなる、莫大な時間の果てに、私たちはきっと逆向き因果のなかで再会できるのです。

 

そのときまでは、しばらく、さようならですね。ありがとう」

 

どうしてかはわかりません。それでも、私の目からとめどなく、熱いものがこみ上げてきました。

 

数日後、退学届を提出した私は、最後に唯一の思い出の場所である三号館を見たいと思い、キャンパスの端までやってきました。

 

しかし、そこで私が目にしたものは意外なものだったのです。

 

そこにあるのは、屋根のついた駐輪場でした。

 

無い。無い。どこにも無い。私が講義を聴いていた「300番講堂」の入っている三号館がどこにも無い。

 

そんな莫迦な、という思いで、私は慌てて付近の案内板を探し出しました。

 

それによると、三号館という建物はあるにはあるのですが、キャンパスのほぼ中央に位置する二号館の北側にあることになっていました。

 

ざわざわと騒がしい学生の群れをかき分けて、「三号館」に向かいます。

 

それは私の記憶にある、時代遅れの「近未来」とは異なる、無味乾燥なビルといった佇まいでした。

 

もちろん、数日間のあいだに三号館が移転したはずがありません。

 

大学の教務課に問い合わせてみても、「三号館」は開学以来ずっとその場所に位置していて、私が三号館だと思っていた場所はずっと駐輪場だったとか云うことです。

 

私が見た「300番講堂」とはいったい何だったのでしょうか。あれは、単なる夢だったのか。

 

夢だったのであれば、なぜ、実在する『オイディプス』という書物や、充足理由律などのいろいろな哲学に私は出会い、現在もなお、影響を受けつづけているのでしょう。

 

宇宙が最果てに到達すれば、幾千幾万の古い未来、新しい過去を超えて、逆向き因果の世界で私はまた先生に会うことができるのでしょうか。

 

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