私がまだ大学生だった頃のお話です。
その日は資格講座が長引いたため、やや人混みの減った商店街を通って帰路についていました。
そんな時です。
「お兄さん」
路地裏から柔らかな声がかかりました。
そこには小学生くらいの女の子がいて、こちらに手招きをしているのです。
少し不気味には感じましたが「迷子だったら」と思うと放っておけず、ついその女の子に近づいていました。
すると女の子は唐突に私の手を引いて、そのまま路地裏から飛び出したのです。
「見て、お兄さん」
なんなんだと戸惑う私に、女の子は今まで歩いてきた商店街の方を指さします。
私は思わず「わっ」と声を上げてしまいました。
さっきまで僅かに歩いていた通行人達が、軒並み奇妙な生き物に変わっていたのです。
目から腕が飛び出したトカゲ、足先が全てヘドロのように溶けた蜘蛛、身体は人間なのに頭だけは巨大なゾウとなった怪人。
それらは私が声を上げた途端、一斉にこちらを振り向きました。
「こっち」
女の子は腰を抜かしかけた私を、再び路地裏の方まで連れ戻すと、ごくごく冷静に話しかけてきます。
「危なかったねお兄さん。私が声をかけなかったら、あいつらに連れていかれるところだったよ」
女の子が何者なのかはわかりません。
しかしながら動揺した私にとって、彼女の冷静で甘い声音はひどく安心したのを覚えています。
「とりあえずこっちにきて。路地の奥まで逃げれば大丈夫だから」
女の子は微笑むと、更に暗い路地の先を指差します。
そこには僅かながら灯りが見えました。
私は動悸を抑えつつ、女の子に連れられて一歩前へ踏み出します。
「おい」
その時、路地とは反対方向から声がかかりました。
さっきのゾウ頭の怪人がこちらを覗き込んでいたのです。
「なにやってるんだ、そんなところで」
「ダメだよお兄さん、あいつらの話を聞いちゃダメ」
女の子は慌てた様子でぐいぐいと私の腕を引っ張りますが、私はそこから動けずにいました。
そのゾウ頭の怪人の言葉からは見た目とは裏腹に、こちらを心底心配しているような声音だったからです。
まるで既知の仲であるかのように。
途端、私の背に寒気が走りました。
さっきまで向かおうとしていた路地裏から、尋常ならざる気配を感じたのです。
私は思わず女の子の手を振り払い、ゾウ頭の怪人の方へと駆け出しました。
「おいおい、いきなり駆け込んでくるなよ。危ないじゃないか」
路地裏から出た先で待っていたのは、大学の友人でした。
訝しげに私を見る友人曰く
「お前がいきなり叫び声を上げて路地裏に入っていったもんだから心配して覗き込んだ」
とのことでした。
私はわけのわからないまま、再び路地裏を振り返ります。
「ざーんねん。あとちょっとだったのに」
そこには口角を三日月のように吊り上げて笑う、悍ましい表情の女の子が立っていました。
今度こそ完全に腰を抜かした私を尻目に、女の子は路地の暗がりに消えていきました。
あの女の子がなんだったのかは今でも分かりません。
友人も「女の子なんて見てない。お前は一人だった」と言うばかりで、先程見た他の怪物たちもただの通行人の姿に戻っていました。
ただ、あれから一人で路地裏を通ることだけは絶対に避けています。
著者/著作:怪文庫【公式】(Twitter)