「山」という広大な自然は、巷ではスピリチュアルや心霊話をよく聞くと思います。
私もよくネットや怖い話を特集した本で、「山」が舞台であったり「山」で怪異に遭遇し怖い目に遭ったという話を多々見てきました。
山という人間が立ち向かえない広大な自然という存在から身を守るために「山」に対して私たち人間は恐怖や危機感を潜在的に植え付けられているため、怪談話が多くなってしまうのではないかと考えていたのですが、
やはり「山」にはそれだけでは説明できない奇妙な出来事もあります。
私が「山」で遭遇したものも、そのような説明ができないものでした。
私が住んでいた実家の近くには、登ってから降りるまでに20分前後で済むような小さな山がありました。
その地域の名前をつけられた山は、春には桜が満開になることから地元住民の花見場になったり、日頃近くに住む老人たちの散歩コースになるような地元の人たちから愛される存在でした。
その山を仮にA山と呼ぶことにします。
私の通っていた小学校では、そのA山に4月になると遠足に向かうというのが通例で、その年もいつものように遠足に向かいました。
桜が丁度満開に近いほど咲いており、周りのクラスメイトも子供ながらにいつもとは違う山の景色にテンションが上がっていたことを覚えています。
その日の遠足の流れとしては、山の頂上を目指し、登頂した後には写真撮影をしてお昼ご飯を食べ、その後自由に遊ぶというものでした。
無事に登頂した私たちは、楽しくご飯を食べ、やっと自由時間になったため付近をぶらぶら探検していました。その時事件は起きたのです。
同じクラスのクラスメイトである男の子が突如悲鳴をあげたので、そちらの方向に向かい、男の子が指さす方向を見ると、
桜の大木の一つに人がぶらぶらと吊り下がり揺れているのが見えました。
真昼間の明るさと、人として不自然な表情をしているその顔はとても歪で、今でもその姿は脳裏に焼き付いています。
その後のことは、怒涛にことが進んでいきよく覚えていませんが、大人たちが沢山その場に来たこと、そしてその大人たちが口々に言っていた言葉は覚えています。
「またこの山に呼ばれたのだ」、「呼ばれる山が始まったのだ」と。
大人たちが言っていたその言葉はその当時はよく理解ができませんでしたが、丁度最近実家に帰った時その言葉の真実を知ることができました。
あのA山では定期的に首吊りが起こるそうです。
しかし、奇妙なことにその首吊り死体は突如現れるそうで、私たちが目撃したあの首吊りの人物も数分前にはその木にぶら下がっていなかったにもかかわらず、死後2日経っていたそうです。
歴代のA山で首を吊った人物たちには共通点がありました。
その地域に住んでいる人物であることと、最近人生が辛いと周りに洩らしていたこと。
それらのことを踏まえて、その地域の人たちは死場所を半強制的に提供してくるA山を別名「呼ばれる山」と呼んでいたそうです。
これらのことを知っていたその地域の大人たちは、山に呼ばれたくないということで絶対に何か辛いことがあっても、「人生が辛い」という言葉を決して口に出さないように心にとどめておくことが暗黙の了解になっているのだということを聞きました。
なぜA山が、人生が辛い人たちに死場所を半強制的に提供するのか、その答えは「よくわからない」のです。
ただ、この地域で死にたくなければ、「人生が辛い」という言葉を言わなければ良い、ただそれだけなのです。
これが私の地元で未だに起こっている、「山」にまつわる奇妙な話です。
著者/著作:怪文庫【公式】(Twitter)