子どもの頃から、嫌な夢をたまに見る。
それが20年経った今でも続いている。
台所に猿がいて、そいつは包丁を握ってる。
流し台の上に座り込んで、私を襲うチャンスを狙っている。
歯をむき出しにしてニタニタと笑いながら。
私は腰が抜けて動けない。
何なの、なんでうちにこんな奴がいるの。
おかしいよ、お父さんもお母さんもどこいっちゃったの。
猿は耳まで避けたような口でにんまり笑うと、腰を抜かしたまま後ずさりする私の右腕に包丁を振り下ろす。
私は自分の叫び声で目を覚ます。
当たり前だけど、右腕はちゃんと肩から生えている。
それから私は、猿が嫌いになった。
遠足で動物園に連れていかれたときは、思わずサル山の前で吐いてしまったほどだった。
確かにサルは頭がいい。
刃物で人間を切りつけることなど造作も無いだろう。そう思うと、ますます気分が悪くなった。
大人になって、「私、猿、嫌いなの。っていうかトラウマ」そういうと彼氏は不思議そうな顔をした。
「そう?一心不乱に餌を食ってる姿なんて可愛いけどな」と彼は言う。
私は話題にだすのも嫌で、それからは黙っていた。
「俺、霊感強いんだよね」そう彼が切り出したのは数回目のデートでドライブしていた時だった。
私はため息をついた。
彼にひどい虚言壁があることに気が付いたのは、割と最近だ。
芸能界でデビューが決まっただとか、元、不良グループのリーダーだとか、仕方のない嘘ばかりつきたがる。
今日だって、本当は、別れ話をするつもりで彼に会いに来たのだ。
「君、子供おろしてるだろ。水子の霊が見える」その一言に怒りで耳が熱くなった。
もちろん、そんな事実は無い。それにしても冗談にしたら悪質すぎる。
「最低ね。私、帰るわ。下して」
「待てよ。怒るってことは図星なんだろ。認めるんだな、誰の子だよ」
彼は細い目をいっそう糸のように細くして、私に顔を近づけてきた。
「俺は、お前に殺された子の生まれ変わりなんだよ」
もう限界だ。赤信号の隙を狙って、私は車から飛び出した。
かすり傷を負ったが、幸い体は無事だった。
すぐに彼の連絡先は消したが、SNSで誹謗中傷を受けた。
自宅の郵便受けにもごみを入れられ、警察に相談したこともあった。
やがて私は、まともな男性と出会い結婚した。
夫に元彼の話を相談をしたときの、何気ない一言が忘れられない。
「そいつは人間じゃないよ、猿以下だ」
しばらくして、私たちは美術館に行く機会があった。
江戸時代の日本画の美術展だ。私は1枚の絵の前で釘付けになった。
それは「ぬえ」の絵だった。顔は猿、胴体は虎、しっぽは蛇。
あれほど見たくない猿だったのに、恐怖でいっぱいなのに、私はあの夢を見たときと同じように絵の前から動けなかった。
後ろで夫が静かに呟いた。
「これは人間の醜いものの寄せ集めだと思うんだ。狡猾さ、獰猛、執着。人間に生まれてきたら、みんな持ち合わせてる醜い部分なんだよ」
元彼の蛇のような執拗さ、獰猛な攻撃性をふいに思い出した。
彼が特別なわけじゃない、むしろ自分に正直に本能を露呈させていただけだ。
私が夢の中で見た猿は、猿じゃなかったのかもしれない。
あれは…生まれて間もない赤ん坊。
そう思うと、顔から血の気が引いていくのが分かった。
私は子供を妊娠していたからだ。
この子は望んでできた子ではない。
私のお腹は、今日も大きく膨れ上がる。
生まれてくるのは猿だろうか、それとも。
今夜もまた、あの夢をみてしまいそうだ。
著者/著作:怪文庫【公式】(Twitter)