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怪文庫では、多数の怖い話や不思議な話を掲載致しております。また怪文庫では随時「怖い話」を募集致しております。洒落にならない怖い話や呪いや呪物に関する話など、背筋が凍るような物語をほぼ毎日更新致しております。すぐに読める短編、読みやすい長編が多数ございますのでお気軽にご覧ください。

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鬼伝説の山②

 

鬼伝説の山①はコチラからどうぞ

 

 

俺はさすがにつかれてきた手を耳から話した。

 

ドン!

 

俺は後ずさった。扉全体が揺れたのだ。

 

続いて、また扉が固いものにぶつかった音をたてて振動する。

 

体当たりしているのだ。

 

ノックといい体当たりといい、倉の外にいるモノが実体を持っているのは確かだ。

 

俺はすぐさまクワを持ってきた。

 

扉は尚も揺れている。俺はその前に立ってクワを構えた。すると、鉄製であるにも関わらず、倉の内側に向かって扉の中央が盛り上がってきた。

 

俺は生唾を飲みこんで、一番奥まで退去する。

 

お札の一部が剥がれている。

 

ギシギシと音をたてながら盛り上がりはさらに増していく。俺はその時お札の文字が蠢いているのを見た。

 

虫が這うように文字通しがぶつかりあい、恐怖と共に見入ると、最後には文字が寄り集まって、人間の顔を形作った。

 

それは何かを叫ぶように口を縦に開き、苦しみの表情を張り付けていた。

 

俺はすくみ上った。

 

扉の鍵の一部が今にも外れそうになっていた。お札も半分がめくれて、風が吹くはずもないのに激しく揺らめいている。

 

札に現れた顔が叫んでいるような低い風の音が、俺の耳に渦巻いた。

 

俺の動悸は最大限にまで達した。

 

刹那、空気が振動した。

 

俺はその場にへたり込んだ。

 

恐る恐る扉を見る。俺は素っ頓狂な声を出した。

 

扉に異常はなかった。先ほどまで盛り上がっていたはずだったが何の変化もない。

 

ただ鍵は一部壊れていた。お札は完全に剥がれ落ち、焼けたあとのように黒く塗りつぶされている。

 

俺は肩で息をしながら立ち上がった。扉に手を触れる。熱くもなく、柔らかくもないただの鋼鉄だった。

 

扉に耳をくっつける。

 

外からの音はない。やはりお札の効果だったのか、奴は立ち入れなかったようだった。

 

俺は確保していた寝床に行って横になった。そして、恐怖で朦朧とする意識を越えて、微睡に落ちていった。

 

眼が覚めたのは朝の五時だった。

 

夏の早朝は幾分明るくなっているはずだ。俺は扉に近づいて、耳をそばだてた。何の音も気配もない。

 

俺は静かにカギを開けた。開いていくと、空虚な庭が目の前にあった。

 

大きく深呼吸して新鮮な空気を吸いこんだ。

 

俺はふと、刃物のことを思い出して、水を飲みにいくついでに包丁を取りにいくことにした。

 

あの魔法陣を途中まで完成させたのだから、最後までやり遂げたかった。

 

俺は台所にいって水を一杯飲んでから、何本かある包丁の一本を手にとって外に出る。

 

一先ず危機は乗り越えた。

 

昨夜の記憶は鮮明に蘇り、鳥肌となって俺を襲い続けた。

 

薄い光のもと、異世界から人間の世界に戻ってきたように感じていた俺は、安心して蔵へ戻る。

が、

 

「ううぅぅぅぅっぅぅぅぅぅぅぅ」

 

突如後ろの茂みから、うめき声をあげた黒くて細い物体が、地面を跳ねながらこちらに向かってきた。

 

「あぁああぁ、ああぁ!!」

 

俺は一目散に蔵へ逃げた。

 

腕がものすごく震えた。それでも何とか扉を閉めた。

 

人ではなかった。とにかく細長くて黒い何かだった。

 

頭部らしきものが出っ張っていた。人と思しき目があった。他には何もなかった。下腿部分を屈伸させて跳ねてきたのだ。

 

そして、扉へ体当たり。

 

悪夢が舞い戻ってきた。俺は鍵を掴んで固定した。

 

振動が俺の体を吹っ飛ばそうとする。

 

俺はポケットを探った。お札を扉に貼りつけるためだ。だが、いくらまさぐってもお札を掴むことができなかった。

 

「ない」

 

全てお札は使い切ってしまったらしい。

 

ノックされた夜に何枚も使ったのを悔やんだ。だが、俺はもう一つの頼りを作っている。

 

準備しておいて本当によかったと思った。

 

俺は思い切って鍵から手を離し、包丁片手に魔法陣に近づく。

 

扉に当たる衝撃は増していき、鍵が破壊される前になんとしてでもこの儀式を完成させなければならない。

 

俺は包丁を手のひらにあてがって、すっと下に引いた。

 

線となった傷から血が溢れる。それを魔法陣に数滴落す。

 

包丁を魔法陣の中央に突き立てる。

 

ふと、この魔法陣は本当に利き目があるのかどうか疑問が湧いてきた。だがすでに遅かった。

 

刹那、扉が破壊される轟音が響いた。俺は悲鳴をあげた。

 

すると閉じた瞼の中の暗闇が白い光に包まれた。光が魔法陣から発生したらしい。

 

その光の威力から推測すると倉中に及んでいただろう。

 

そして、跳ねる音が後方より迫る中、俺は気を失った。

 

眼が覚めたのは夕方だった。俺ははっとして後ろを見る。

 

あの化け物の姿はなかった。

 

鉄製の扉は閉め切られたまま、鍵も破壊された形跡もなく元通りになっている。

 

俺は頭をかかえた。確かにあの後、鍵が壊され扉も突破されたはずだ。そして、魔法陣から眩い光が――

 

俺は誰かの気配を感じた。

 

あの化け物かと思い、俺は尻餅をつきながら後退した。だが、そこにいたのは化け物ではなかった。低い声がした。

 

「お前が」

 

スラリと背の高い、黒衣に身を包んだ男だった。

 

「お前が呼んだのか、私を」

 

と、気疲れをひそませた問いを、その怪しげな男は発した。

 

見知らぬ相手を前に、俺は硬直して何もいえなかった。しばらくして俺はまず訊いた。

 

「あなたは一体、誰ですか」

 

「お前に呼び出されたものだ」

 

黒衣の男は魔法陣の上に立っている。

 

俺は成功したんだと直感した。

 

だが、男が出てくるなど予想もしていなかったので拍子抜けしていた。

 

目に見えない結界などが張られるとか、そういう考えだった。

 

俺は化け物を見た後だし、突如現れた男にもそれほど動揺せず、単刀直入にいった。

 

「俺を助けてください」

 

「それが願いか」俺は頷いた。

 

俺は箱を見せた。

 

「この中に髪の毛を入れると呪われるんです。それで間違って自分の髪の毛を入れてしまったかもしれないんです。だからさっきの化け物に襲われて。とにかくこの箱を開けれさえすれば……」

 

男は細長い指で箱を掴むと、自分の眼間に持ってくる。

 

「これは開けられない」

 

「どうして」

 

「この箱は私も見たことがある。とても邪悪なものだ。誰からもらった」

 

「俺と同い年くらいの女の子に」

 

「ならば彼女でしか開けられない」

 

「そんな、森へいって何度も探したんです! でもいなくて……」

 

「森?」

 

俺は倉の外に出た。男もついてきて家の裏側に広がるB山を見上げた。

 

「なんと、道が開けているのか。それに同化している」

 

「道?」

 

男は答えずにいった。

 

「すでにわかっていると思うがお前が出会った少女は人ではないぞ」

 

俺はすでにそう確信していた。もっと早くに気づいていればよかった。

 

「あの化け物も……当然」

 

「ふむ。この世のものではない」男は呟いた。

 

「それで、その箱を開ける方法はないんですか?」

 

俺は懇願するように問うた。男は冷静に告げる

 

「言った通り無理だ。当事者に頼む以外には」

 

「ならこの箱をくれた彼女に掛け合ってくれるんですね!」

 

「それは断る」

 

「!?」

 

俺は意味がわからなかった。

 

それほどあの少女が強力だというのだろうか。

 

「さっきの化け物だって退かせたじゃないですか」

 

「あれは小物にすぎん」

 

「あの少女は一体何なんです。それにあなたも。人ではないんでしょう? 別のところから来たんでしょう?」

 

「追及すればさらなる堕落が待つぞ。お前は呪いを解くことだけに専念すればいい」

 

確かにそれだけで俺は精一杯だった。

 

これ以上面倒事に巻き込まれるのはごめんだ。

 

「交渉がダメなら、他に箱を開けてもらえる方法はないんですか!?」

 

「交換条件しかない」

 

「交換?」ただの交渉では無理ということだったのだろうか。

 

「彼らは邪悪を好む。我らは代償を好む。それ以外の興味はない。より邪悪のものを彼女に渡せばいいのだ」

 

「邪悪、代償……」

 

「お前も払うのだぞ」

 

「じゅ、寿命……ですか」俺はぱっと思い浮かんだ単語をいった

 

「どれでもよい。しかし私は身体の一部を推奨する」

 

「何故です」

 

「好きだからだ」

 

俺は何も言えなかった。

 

最悪寿命でもいいと思った。あの生物に殺されるより百倍もマシだからだ。

 

すでに逢魔時だった。

 

俺はわたしが森にいる気がした。俺は男と共にB山へ足を踏み入れた。

 

するとそこへ、Uが怯えながら俺のところへ駆けてきた。

 

「俺昨日見ちまったんだ。窓の外で跳ねてる変なものを。お前もみたか!?」

 

俺はとりあえず否定した。Uには男が見えていないようで俺だけを見て話していた。

 

男が横でいった。

 

「そいつも連れて行け」

 

「え」

 

「いい材料になる」

 

俺は考え込んだあと、頷いて、

 

「実は俺もそいつのこと知ってるんだ。だから今、化け物から身を守るために森へ行く。Uくんも手伝ってほしい」といった。

 

こいつにお願いするなど屈辱だった。

 

「わ、わかった」とUは泣きべそをかきながらいった。

 

道中、Uは男が見えていないので、俺は二人との会話を同時にこなさなければならなかった。

 

だからすれ違いも起こった。

 

「なぁ、どうして俺に手伝えなんていったんだよ」

 

Uがいきなりいって、俺は驚いた。Uも引っ掛かりを覚えていたのだろう。

 

「そっちが……」

 

いいさして俺は口を噤んだ――そっちが今にも泣きそうになっていたし、男の命令だから、などいえるはずもなかった。

 

「それにお前、どうして平気な顔してんだよ。得たいの知れないモノがいるんだぜ?」

 

「俺だって怖いよ。でもそんなこと言ってちゃ解決なんてしないだろ」

 

「それは、そうだけどよ」

 

Uは黙り込んだ。

 

しばらくして「お前は俺を恨んでるか?」と唐突にUが訊いてきた。

 

「……訊かなくてもわかると思うけれど」俺は苛立ち混じりにいいのけた。

 

「そうだよな。いじめたんだもんな」

 

「まさか謝るつもりじゃないよな」

 

「……」Uは何もいわなかった。

 

「お前だってな生意気なところが悪いんだ。俺たちだって遊び半分だったし……お前も俺たちを気にくわなかったんだろうけどよ、どこだよ。まぁ直すってわけじゃないけど」

 

「どこで彼女と出会った」

 

男が口を挟んだ。俺は前方に、当初呪いの準備をしていた大木を見つけた。

 

「アソコ」

 

「え?」

 

「あ、いや」

 

「俺たちのアソコが気に入らなかったのか?!」

 

「違う!」中学生特有の、何でも下ネタに関連付ける習性が発動した瞬間だった。

 

こんな状況で気楽なものだと今でさえ思う。

 

男が立ち止まった。俺も気づいて停止する。Uもそれに習った。

 

「いた」

 

俺は息を吐きながらいった。

 

彼女が立っていた。出会った時と同様に白いワンピースを着ている。線の細い体を件の大木にもたれさせている。

 

すると、電池が切れたようにUが倒れた。

 

「!」

 

「心配するな。私がやった」

 

平然と男が呟いた。

 

「気絶させたんですか」男は頷いた。

 

「あら、いつのまにそんなものを呼び出したの?」

 

彼女は男のほうを見ていった。俺はポケットから箱を取り出した。

 

「俺はバカだった。この箱の中に自分の髪の毛を入れてしまったんだ」

 

彼女が可笑しそうな目を俺に移す。

 

「そう」

 

「呪いを解いてほしいんだよ。俺はこいつらに呪いがかかるようにしたいだけだったんだ」

 

「いったでしょ? 自分の一部は入れちゃだめだって。それを守らなかったのだから呪われて当然よ。そこに情けなんてこれっきしもないわ」

 

「でも俺は何も悪くない!」

 

「あなた最初呪いをかけようとしてたじゃない。じゃあ当然呪詛返しも覚悟してたのよね。だったら今の呪われた状況を呪詛返しにあってると思えばいいんじゃない?」

 

「この人間と、その箱の中身を交換したい」

 

男が割り込んだ。

 

「……」

 

「お願いだ!」

 

「ダメ。だめったらダメよ聞かないわ」

 

「この少年にはお前の好く邪悪はもはや影をひそめ始めている」

 

「いじめられていたあなたならわかるでしょ。都合のいいことなんてないの。思い通りになることなんてないのよ」

 

「諦めて死ねっていうのか」

 

「呪うというのは、人を侮蔑するのと同等かそれ以上に穢れていて、とっても楽しいことなのよ」

 

「私はここだ」

 

彼女は男を見た。

 

「迷子は帰りなさいな」

 

「呼び出されたのだ。わかっているだろう。だから願いは聞き届けなければならない」

 

「そう」

 

直後、茂みが音を立てた。その茂みから立ち上がるようにして現れたのは、あの跳ねる化け物だった。俺はその禍々しい姿に怖気づいて、悲鳴をあげた。

 

「ちょうど獲物が揃っているんですもの。ね、クロボウ」

 

彼女は嬉しそうだった。俺は足が動かなかった。

 

現れたクロボウ(名称がわからなかったので勝手に命名)が飛び跳ねてくる。

 

男が手を伸ばした。瞬間、俺の視界が真っ暗になった。

 

瞼を持ち上げるとさっきと別の場所だった。

 

「ここは……」

 

「場所を変えた」

 

俺は頭痛がしてこめかみを押さえる。

 

「交渉は決裂、か。こうなったら呪いから逃げ続けるしかない」

 

俺は呟いた。

 

「無駄だ。あれは影さえあればどこででも現れ、お前を殺すだろう。この世には必ず影がやってくるんだ。逃げ場はない」

 

「もし呪いが解けなかったら、寿命の件はなしですよね」

 

「目ではなかったのか」

 

「寿命です」

 

「まぁ、焦るな。方法は考える」

 

するとUが目を覚ました。

 

「俺、どうして……」

 

「もう、だめかもしれない」俺はそういった。

 

「どうしたんだ急に。何が?」

 

「俺たちは殺される」

 

「はぁ!? あ、あの化け物に?! そんなのごめんだ! どうにかするっていったじゃないか」

 

「俺にいわないでくれよ。文句ならこいつに」俺は男を指差した。

 

「どこ指差してたんだよ誰もいないじゃないか!」

 

Uには見えていないことを思い出し俺はだらりと腕を下げた。

 

「元はといえば俺が悪いんだよな」

 

と、俺はUたちに呪いをかけたこと、だからあの化け物が襲ってきて、TもNも殺された。

 

俺の不手際でその化け物に狙われることになったことを全て話した。

 

「なんだよそれテメェ! だから冷静にいられたんだな!」

 

Uはドスの利いた声をあげた。俺の頬に鈍痛が走った。

 

Uの拳はなおも飛んできた。俺は血の混じった唾を吐いた。

 

俺も口を開いた。

 

「でも俺が呪う理由をつくったのはお前たちだろ! これでおあいこだ! それに俺も呪われたんだ」

 

Uは舌打ちして、その場にへたり込んだ。

 

「俺はまだ死にたくない」

 

「俺だって」

 

「おいひらめいたぞ」

 

俺は首をもたげた。男は人差し指をたてていた。

 

「……本当に成功するんですよね」

 

「誤算はない」

 

「……一人事とか、やめろよな」俺はため息をついた。「……そうだな」

 

俺はしょんべんといって、男を連れ、Uの呑気だな、との嫌味を背中で受け止めながら、茂みの奥へいった。

 

「で、方法っていうのは?」

 

「お前たちだけで、あれから逃げるのだ」

 

「あの化け物から?!」

 

「その通りだ」

 

「そんなことしたって呪いが解かれないじゃないですか」

 

「解くことはできる、うまくことが運べばな」

 

「その間に何かしてくれるんですね」

 

俺は男の真意を汲み取った気がして少し音量が上がった。

 

「いや。私は少し休む」

 

「っ!?」

 

「迷っている時間はないぞ」

 

と、男の指差す先に、クロボウが迫っていた。

 

Uの叫び声が上がった。俺はUのところへ駆けより、共に走り出した。

 

「くそっどうしろってんだ」

 

俺とUは後ろを垣間見つつ逃走する。Uが先頭を切り、一歩遅れて俺が続く。

 

後ろから恐怖の圧迫感に押され、俺は無我夢中だった。

 

クロボウは身体を曲げながら跳ねてくる。

 

飛躍力がだんだん上がっているように思われた。

 

Uが茂みに飛び込んだ。俺はその反対の茂みに飛び込んだ。

 

がくがくと震えながら顔を上げると、茂みを壁として見た葉っぱの隙間から、クロボウが跳ねていくのが垣間見えた。

 

Uの方にも俺の方にもこなかった。ただまっすぐに進んでいっただけだった。

 

俺とUは立ち上がって、クロボウが跳ね去っていった方向を見据える。

 

「何とか撒けたのか」

 

Uが呟いた瞬間だった。

 

Uのずっと後方から瞬間移動したように、クロボウが猛スピードで跳ねてきた。

 

女々しい声をあげて、俺たちは茂みをかき分けながら走った。俺は何度も転びそうになった。

 

突き出た枝や大きな石、捨てられたゴミなど足をとられるものはそこかしこにあった。

 

案の定、Uが何かに引っかかったらしく、横転した。

 

「うぬぬうぬぬぬんうぬんぬ」

 

と狂ったようなうめきをあげたクロボウは容赦なく迫ってくる。

 

俺は一度止まった足を再度動かそうとした。Uを見捨てようとしたのだ

 

今思えばよくUのために一度でも足を止められたものだと感心する。

 

その僅かな逡巡の最中、俺の視界に黒衣の男の姿が見えた。森林に立ち尽くす男はただならぬオーラを発していた。

 

俺は男の力を借りようと思った。何故、Uを助けようと思ったのかはわからない。

 

ただ咄嗟に身体が動いたのだ。

 

クロボウとの距離はまだ開いている。俺は男に見えるようにUの前に進み出た。

 

「おい!」

 

Uが手を伸ばしてきた。

 

進行方向にUの手が現れて、気が動転する最中、俺にとってそれは確実に邪魔なものだった。

 

俺はUの手を押しのけた。

 

その時、クロボウから腕のような触手が伸びた。

 

それはUの手のあった場所を滑空して、再び主の体躯へ戻る。

 

Uは俺が突き飛ばしたことで尻餅をつき、クロボウの手から逃れる形になった。

 

俺はただ男に助けてくれと合図しようと思っただけだった。しかしUはそれをクロボウから助けた行為だと捉えたらしい。

 

「すまん。助かった」

 

とUは息も絶え絶えにいった。

 

すると、クロボウの眼間に木が一本倒れ込んだ。枯れた樹ではなくさっきまで地に根を張っていた頑丈な樹だ。

 

男の力だ、と思った。俺はUの手を掴んで走り出した。

 

そして俺たちは当てもなく突き進む。しばらく全力で走り続けた。

 

ランダムに曲がり、獣道さえも通った。俺たちは岩陰になっているところで一旦止まった。

 

息を整える。

 

クロボウの姿はなかった。男が完全に追い祓ったとも思ったが油断はできない。

 

顔を真っ赤にした俺たちは岩の奥に隠れた。そうしなければ安心できなかった。

 

「もう追って来てないんだろ」

 

「わからない。また来るかもしれない」

 

「どうするんだよ、もう日が暮れる。早く森を出ないと」

 

「シッ!」

 

俺は枝の折れる音を聞いた。クロボウだ。Uも口を噤む。岩の隙間から向こう側が見えた。

 

と、黒い影が重なった。距離があって全体像が見える。

 

頭部らしき箇所を身体ごとくねらせて、左右に巡らせている。

 

俺たちを探しているのだ。俺が覗いていた隙間と頭部の前面が合わさったとき、動きが止まった。

 

「見つかった」俺は悟った。

 

刹那、クロボウが跳ねてくる。「出ろ!」俺は叫んで、岩から飛び出した。Uも続く。

 

だが岩と岩の間は狭く、俺とUの体がぶつかりあって、とうとう俺は倒れ伏せてしまった。

 

この時の恐怖ったらない。今までで一番恐ろしい瞬間だった。

 

ちびっていても仕方なかっただろう。クロボウからあの手が伸びてきた。

 

起き上がろうとしていた俺の足を掴みそうになった時、「あぶねぇ!」とUが俺に体当たりして、俺は無事触手から逃れることができた。

 

クロボウはまた、そのまままっすぐに跳ねていく。小回りが苦手らしい。

 

俺に覆いかぶさったUはその場に尻餅をついていった。

 

「早く帰りたい」

 

まったく同じ心境だ。

 

「ごめん、助かった」――俺は咄嗟に口を噤んだ。

 

だがすでに遅かった。

 

絶対にいうことがないと確信していたことを今口にした。

 

俺はこのときすぐには気づかなかった。

 

Uの表情は悲痛なものに変わり出していた。見れば、Uの足先が痛々しいことになっていたのだ。夏ということもありUはサンダルだった。

 

Uの親指の爪の間に枝が突き刺さっていた。枝の侵入によって爪が上に盛り上がっている。

 

血は溢れ出て他の指まで染めていた。見ている俺の足までじんじんしてきた。

 

Uが歯を食いしばりながら、悲痛な唸り声と共に枝を抜く。

 

すぐさまTシャツを破り、親指に巻きつけた。血が浸みてとたんに赤くなった。

 

「うぬぬうぬぬぬぬうぬぬ」

 

クロボウだった。このときほどタイミングの悪さを呪ったことはない。

 

Uがクロボウの手につかまれた。

 

そのまま引きづられる。

 

俺はとっさにUの腕を掴んだ。

 

引き戻そうとするが、尋常ではない力がUを持っていく。

 

このままではUの手足が千切れるとさえ感じたほどだ。

 

Uが涙ごえで叫んだときだった。

 

上空から唐突に岩が落下してきた。

 

見事に下敷きになったクロボウの手が緩み、Uが解放される。

 

男の力だろう。

 

そんな芸当ができるのにいつもギリギリで助けることに俺は苛立ちが募った。Uを起こそうと思ったが、動けない様子だった。

 

「やばい腰が抜けて、動かない。それに足も痛い」俺は逡巡した。

 

Uは歯を食いしばっていた。

 

「お願いだ。蹴り飛ばしてくれ。そうすれば勢いづくかもしれない」

 

俺は、前方のわめくクロボウの姿を一瞥して、息を飲むと、Uのいう通りにした。そして何とか走り出したUと共に逃げ出した。

 

しばらくして見つけた穴倉に、俺たちは逃げ込んだ。

 

熊のものだろうか、広さは十分で深さも申し分ない。

 

俺たちは息を殺して体力回復に努めていると、ふいにUがいった。

 

「蹴り飛ばされるって結構痛いんだな」

 

俺はびっくりしたが「だろ」と返した。

 

「尻、腫れてるかも」

 

「擦り傷もいっぱいだ」

 

俺は自分の腕を見た。沈黙が続いたあと、Uが頬をかきながらいった。

 

「呪われて当然、だな」

 

俺は何もいわない。

 

「今更許してくれなんていわない。でも本気でお前を嫌っていたわけじゃなかったんだ。遊び半分だった。

それに、お前が化け物を呼んだから冷静でいられたことはわかったけど、だけど、お前も呪われていて、あの化け物に追われてる状況なのに、堂々としてて俺を助けてくれた。こんなに勇気のある奴だって思わなかった。スゲェよ」

 

震えあがっていたUからは俺の姿がそう見えていたらしい。

 

事実冷静に捉えていたところもあったが、やはり恐怖に包まれて吐きそうな程だったのだが、

 

「……そうか」

 

と俺は呟いた。

 

俺の中の憎しみは完全に消えたわけではなかった。だが、これまで協力して逃げてきた経緯と、呪いを犯した罪悪感とが積み重なって、Uへの怒りは弱まっていた。

 

 

穴倉の外は、さっきまでクロボウに追われていた時の木々の騒々しさとはうって変わり、闇に溶け込んむ静寂が満ちていた。

 

俺は続けた。

 

「呪いなんてするもんじゃないな。お前たちも人間だから、内心で俺が気にくわないこともいっぱいあったんだろう。こんなことに巻き込んだのは俺のせいだ。でもそれが俺を虐めた報いだと思ってほしい……死んだ奴には頭も上がらないけれど。ただ一生その罪は背負うと思う」

 

「あぁ、俺も身に染みたよ。怖さも痛みも――」

 

俺たちはそのあと特に言葉を交わさなかった。

 

お互い疲れ果て、穴倉の外に気を配るのに精一杯だった。クロボウが跳ねてくる音を聞き取ろうとして数分後、俺たちは照明が切れたように眠りに落ちていた。

 

眼が覚めると、生暖かい空気が満ちていた。俺は面前に箱が落ちているのが見えた。

 

そして、驚いたことに蓋が空いていた。

 

もう夜明けらしく、微かな太陽の光が木々の間隙をぬって、俺の目にあたった。

 

穴倉の外に、男が立っていた。

 

「呪いは解けた」

 

「え?」

 

俺は意味が飲みこめなかった。

 

「特別に真実を教えてやろう」

 

そういって男は一方的に説明を始めた。

 

「呪いを止める方法は、相手に対しての怨念を消すことだ。お前の怨念は髪の毛を通して、箱に力を与え、呪いを発生させた。故にお前の怨念が消えれば、髪の毛から箱に流れる怨念も止まり、呪いが消滅する。私はお前たちの確執を拭いさる状況をつくっていたのだ。だからあれを完全に消さずにお前たちを追わせた」

 

「じゃあ……」

 

俺ははっとして周囲を見回そうとした。

 

「奴はもういない。この次元にはな」

 

突如透き通るような声が降ってきた。

 

「どこにいっても、完全なものなんてないのね」

 

わたしが男の隣に立っていた。

 

そして穴倉に歩み寄ってしゃがむと、箱を掴んだ。

 

「渡したこの箱、わたし呪いは返してもらうわ。あげたつもりはないからね」

 

わたしは端正な顔で微笑んだ。

 

「もらったつもりもないよ。それにもういらない」

 

そのとき見えた彼女の腕に傷はなかった。

 

Uはまだ眠っていた。

 

彼女はいった。

 

「これで最後になっちゃったのは残念だけど、あなた的に考えると命拾いしたのは運がよかったね。あぁ、でも代償で寿命削れちゃうんだっけ」

 

「いいんだ。それが人を呪った代償だから」

 

「私に対してもな」男が抜かりなくいった。

 

「そうですね、助かりました」

 

すると、いつのまにか、わたしは消えていた。

 

俺はもう追われなくていい安心感に脱力して、大きく息を吐き吸い込んだ。

 

そのとき、焦げ臭いにおいが混じっていることに俺は目を見開いた。

 

慌てて穴倉から出ると、眼前に広がる木々が炎に包まれていた。

 

ついさっきまで何の異変もなかったはずだ。

 

なのに――ぱちぱちと音を立て、見慣れた植物が無残に焼かれていく。男は燃え上がる様を見やりながらいった。

 

「ヘルハウンドか、そういえば奴も来ていたんだったな。どうやらここにある道を絶つつもりらしい。お前もさっさと退け。奴の粛正に巻き込まれたくなければな。といってもお前は、時がくれば再びその姿を目にするだろうが。では私も、帰還しよう」

 

男は俺の額に指を突いた。

 

次の瞬間、俺の身体から何かが抜き取られる感覚が走った。

 

やや間をおいて、俺が目をあけると男は忽然と消えていた。

 

何だかやるせなかったが、俺はUを抱えて森の外へ脱出した。

 

煙を避けながらで多少時間はかかったが、遠くで祖母の姿が見えて俺はほっと息をついた。

 

結局、黒衣の男の正体もわたしの素性も何もわからなかった。

 

ただ、俺が幼い頃から共にしてきたこの森には、確かにここではないどこか別の世界へ通じる道があったのだろう。

 

元気になった様子の祖母がこっちじゃ! と叫んでいるのが見えた。森の前では消防車を呼ぶ声と群衆ができていた。

 

俺が祖母のところまで到着し、Uを横にさせる。

 

そして、これほど騒ぎになっているのにいびきをかいて眠りこけているUと、事情を問いつめずに俺の身を

心配してくれた祖母と共に、燃える山を見つめた。

 

「えらいことになった」と祖母。

 

「ごめん」

 

「会ったのじゃな、鬼に」

 

「たぶんそうだけど、全然想像してたのと違ったよ」

 

「鬼といっても伝説通りではない。B山に潜む鬼は別の世界から来た者じゃ」

 

「ばあちゃん、もしかして知っているの?」

 

俺は思わず声を荒げた。

 

「んや、詳しいことはわからぬ。だがそう確信できる。若かりし頃ワシは願ったのだ。だからアレが来た」

 

俺にはよく理解できなかった。

 

「でも、おかげで俺は少し頭が覚めたと思う」

 

祖母はうん、うんと頷いていた。

 

「……あの魔法陣じゃが」

 

「あ、ごめん、勝手に」

 

倉に描いた魔法陣をそのままにしてあったことを俺は思いだした。

 

「いいんじゃ、あれは役にたったか?」

 

俺はしばし考え、あごをひいた。

 

「でもあの本……って」

 

「あぁ確か、西洋を旅するのが好きじゃった父親からの土産物だったかの。ワシも恥ずかしながら、借りて読んでおったわ。少し頼りない土産だと思ったが意外に役にたつ。だが、お前がこんなことになるのなら、もっと早くに教えておけばよかったなぁ、すまん」

 

俺は今でもこの祖母の言葉を覚えている。

 

もしかしたら祖母は、あの黒衣の男が何者であるのかも含め、全て知っているのではないかと思ったが、聞かないようにした。

 

(その後事情があって、男の正体や道、化け物とわたしについての見当はついたが、祖母が亡くなったあとだったこともあり、真相はわからない。そして祖母のいった、こんなことになるのならの意味が代償についてだったのだとしたら、人を呪った俺にとっては適切な報いだと思っている)

 

俺はもう一度、真っ赤に染まるB山を見やった。

 

ふと、入り口に黒い犬が鎮座していることに気が付いた。

 

祖母や他の住民には犬が見えていないようで、もくもくと上がる分厚い煙を眺めていた。

 

犬は変わらずこちらを見据えている。

 

直後、俺は声を聴いた。

 

頭の中になだれ込んでくるような感覚だった。

 

俺は直感的にあの犬の声だと思った。確かなことは、俺だけに対して発していたことだった。そう、奴は、こういったんだ。

 

「 また 迎えに こよう 」

 

著者/著作:旧2ch掲示板(出典)