これは私が大学生の頃に体験した話です。
当時私は地元から遠く離れた町で一人暮らしをしており、午前中は大学へ行き、夜は電車で30分程の都市部にあるバーでバイトをしていました。
その頃は若さもあってか、講義の後仮眠を取り、朝まで働いて一度帰宅。シャワーだけ済ませてまた大学へ行く…と、かなり無茶な生活を送っていました。
ある冬の日、かなりの量のお酒を飲まされていた私はまだ暗い街の中をふらふらと歩き、なんとか始発に乗り込んだものの、座席に座ってすぐに眠ってしまいました。
これまでも幾度となく家の最寄駅を寝過ごしてきた私には珍しくなく、ひどい時は何時間も同じ電車で始発駅と終点駅を往復することもありました。
どれ程時間が経ったのか、はっと目覚めた私はすぐさま窓の外を確認しました。
外は真っ暗でした。
なんだ、ほんの少し居眠りしただけか。
ほっとため息をつくと酒の匂いがもわ、と漂いました。
ですが、安堵も束の間、奇妙なことに気が付きました。
私以外の乗客が誰もいないのです。
始発電車とはいえ、繁華街から出発する電車に乗客が私1人だけというのは今までにないことでした。
更に注意深く外を見ると、電車はどうやらトンネルの中を走っている様子です。
私の利用する路線にはトンネルなんてありません。ずっと乗っているうちに路線が切り替わってしまったんだと思いました。
とりあえず私は時間を確認しようとスマホを取り出しましたが、充電が切れたのか画面は真っ暗なままでした。
仕方なく私はスマホをコートのポケットにしまい、電車のアナウンスを待つことにしました。
やがて、聞き慣れたメロディの後、無機質な音声で次の停車駅が知らされました。
「次は、〇〇町 〇〇町」
耳を疑いました。それは、私の生まれ育った町の名前だったからです。
私の知る限り、この辺りでは同じ地名は存在しないはずでした。
夢でも見ているのか?呆気に取られる私を他所に、電車は速度を落としていきます。
トンネルを抜け、朝日に眩んだ目が明るさに慣れた瞬間、私は思わず「えっ」と声を上げました。
そこには私の故郷そのものの風景が広がっていたのです。
家族でよく行ったスーパーや友達と遊んだボーリング場。慣れ親しんだ風景を、ただ茫然と眺めていました。
しかし、一つおかしなことがありました。故郷には電車なんて通っていないはずなのです。
そして電車がホームで停車し、ドアの外に乗客の姿が見えました。
そこには祖父母や幼なじみ、近所のおじさんなど、どれも懐かしい面々が幸せそうな笑顔で行列を作っていました。
やはり夢なんだろうと思いました。
それ以外に説明はつかなかったのです。
そのどれもが、既に亡くなっている人たちだったからです。
「ボタンを押してください。ドアが開きます。」
無機質なアナウンスと共に、ドアの横で開閉ボタンが点滅しました。
「ボタンを押してください。ドアが開きます。」
私はただ目を丸くしてよく見知ったみんなの笑顔を見つめていました。
祖父がニコニコと笑いながら私に手を振ります。
「ボタンを押してください。ドアが開きます。」
私が動けずにいると、みんなの笑顔がどんどん曇っていくのがわかりました。
「ボタンを押してください。ドアが開きます。」
そして、ついにはみんな一様に恨めしそうな表情へ変わりました。
少し顔を俯かせて睨めつけるように私を見ました。懐かしさも消え、夢だとかもどうでもよくなり、怖いという感情でいっぱいになりながらも、私の目は釘付けられたかのようにその景色を見続けました。
「ボタンを押してください。ドアが開きます。」
「よろしいですか。間もなく出発いたします。」
「ドアを開けてください。」
アナウンスまでもが怒りを帯びた声で私を急かしました。
私は頭の中で「早く出発してくれ!」と繰り返し強く念じました。
本当は大声で喚きたかったのですが、喉が張り付いたように塞がって、一つも声が出せなかったのです。
「出発します。」
悔しそうな、吐き捨てるようなアナウンスが流れ、ゆっくりと電車が加速を始めました。
窓の外にみんなの恨めしそうな顔が流れていきます。
私の視線はようやく解放され、電車の天井を仰いで浅い呼吸を繰り返しました。
そして電車は再び真っ暗なトンネルに入りました。
またさっきみたいなことが起こるのかもしれない、と思うと私は怖くて仕方がありませんでした。
おそらく10分も立たないうちに、トンネルを抜けると同時にアナウンスが流れました。
「次は〇〇 〇〇」
それは私が今住んでいる家の最寄駅の名前でした。
外に見える風景もいつもと同じ。すっかり日は昇って、通勤するサラリーマンや学生服が多く見えました。
いつの間にか車両内には私以外の乗客の姿もあります。
やがて電車は減速し、ホームに停車するなり私はドアから飛び出しました。
それ以来、私は電車で居眠りするのを辞めました。
あの駅は一体なんだったのでしょうか。あの時ドアを開けていたらどうなっていたのでしょうか。
もしまた同じことが起こっても、私は試そうとは思わないでしょう。
著者/著作:怪文庫【公式】(Twitter)