怪文庫

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とんとんさん

妙に安い物件だな、事故物件とかかな…。


そう思ったんですが、駅近で二路線利用できて、あの広さで、日当たりも良くて…それであの金額なら、多少いわく付きでも…

 

有名な事故物件を網羅してるサイトにも載ってなかったですし、何かが出るとかじゃないのかなと思って契約したんです。

 

でも、安いのにはやっぱり理由があるものですね。


…もう二度と、あのマンションには近づきたくありません。

 

初めに違和感を覚えたのは、マンションについている小さな公園で子供たちがこちらを見てこう言った時です。

 

「とんとんさんの所の人だ」

 

私を指していると理解するまでに結構時間がかかりました。

 

私の名前とは全く違うものでしたし、あだ名だとしてもピンと来ないものでしたから。

 

ですが子供たちとすれ違うたびに、「とんとんさん」と言っているのが聞こえて…理由は分からないけれど、私が子供たちに「とんとんさんの所の人」と認識されているのだと理解したのは、引っ越して一週間くらい経った頃でした。

 

とはいえ、子供の言うことです。

 

子供の頃って近くに住む人たちに「〇〇の人」とか、大人たちには伝わらないような愛称を付けたりしませんでしたか?


「とんとんさんの所の人」というのもそれだと思って、初めは気にしないでおいたんです。

 

でも今思い返したら、少しでも違和感がある時点でおかしいと思うべきでした。


私が初めてそれを見たのは、引っ越して二週間くらい経った頃です。

 

その夜は妙に静かで、マンションの住民全員が一斉に早寝をしたのかというくらいでした。


普段はそんなことはないんです。

 

若い人やお子さんがいる家族も住んでましたし…時刻も22時くらいで、普段ならもう少し周りの喧騒が聞こえてくるような時間で…。


何かあったのかなと思って、ふと窓の外を見た時でした。

 

とん、とん

 

窓を叩く白い手が見えたんです。


一瞬、誰だろう?なんてのんきに考えましたが、私が住んでいるのは5階の角部屋でした。


窓は廊下に面しているものではなく、ベランダに出るためのものです。


…そんな所に、こんな時間に、人がいるわけがない。


私は急いで、カーテンを閉めました。何故かは分からないけど、白い手の正体を見てはいけない気がしたんです。


その窓の鍵がしっかりかかっているのも確認してから、私は家中の窓を確認しにいきました。


鍵を閉めて、閉められるカーテンは全部閉めて、もちろん玄関の鍵も何度も確認して…。


外に逃げるというのは、不思議と思い付きませんでした。…今は家の中の方が安全なんじゃないかって…そう思って…。

 

…窓を叩く音は、一晩中続きました。


激しくなるわけでもなく、ただ、一定の速度で、一定の間隔で、ずっと、

 

とん、とん

 

…そうやって、窓を叩いてくるんです。


何かをしてくるわけじゃなく、ただ、ずっと。

 

…結局その日は眠れなくて、次の日は会社を休んでしまいました。


日が昇るころには音は止んでいたので少しだけ仮眠して、起きて…その足で古い友人を訪ねることにしたんです。

 

彼女は神社の娘さんで、おかしな出来事にも慣れているし、何よりおかしなものがいたら分かるはずだと思って。


私の話を聞いて、彼女はすぐに私の住むマンションまで一緒に来てくれました。


…でも…。

 

「気が淀んでいるような気もするけど、何もいない」

 

そう言われてしまったんです。


じゃあ、昨日の夜の出来事はなんだったんでしょうか。私は実は早寝をしてしまっていて、悪夢でも見たんでしょうか。


…眠れなかった疲れは、確実に体に残っているのに。

 

それでも、心配だからと言って彼女は私に神社のお守りを渡してくれました。


もし同じことが起こったら、その時はすぐに電話をしてと言って、連絡先もくれて…。

 

…同じことが起こるなんて、ないと良いな…と思いながら彼女と別れて、一か月くらいは何もなく過ごしていました。


それこそ、あの不気味な夜のことなんて忘れるくらい平穏に。

 

でも、多分…あの日からちょうど一か月くらい経ったころのことです。


やけに静かな夜がまたやってきました。


あの時のことを思い出して、パニックになりそうになりながら全部の窓、カーテン、ドアを閉めました…あの日と同じように。

 

とん、とん

 

やっぱり、と思いました。


また…あの音が聞こえてきたんです。

 

出来るだけ静かに、声をひそめて、私は彼女に電話をかけました。


すると彼女は、すぐに行くから待ってて、と言ってくれたんです。

 

電話を繋いだまま、彼女が来るのを待ちました。


5分くらい…待ったでしょうか。


電話の向こうから、彼女の押し殺したような声が聞こえてきました。

 

「…家を出なければ安全だから、このまま朝まで話していよう。…朝になったら、不動産屋で引っ越し先を探した方がいい」

 

深く知る方が危険だから、と言って、詳しいことは教えてはくれなかったんですが…

 

そうですね、きっとそれが正解だったんでしょう。


…ベランダに続く窓のカーテンを閉める時に、一瞬…真っ白な…顔のない、なにかが…視界に入ってしまったんです。


ただただ、背筋が凍るようでした。

 

彼女に電話出来ていなかったら、発狂して外に飛び出してしまっていたかもしれません。

 

結局その日、彼女は日が昇るまで電話を繋いだままでいてくれて…窓を叩く音が止んだころ、もう大丈夫だからと家まで来てくれました。


会社には夜のうちに休むことを連絡していたので、二人で少しだけ仮眠して、不動産屋で引っ越し先を探して…。

 

…あとのことは分かりません。

 

私はその日、即日で契約できる部屋に引っ越して、荷物もその日のうちに運んでもらいましたから。

 

でも、その日の夕方、彼女と別れる時…

 

「最初、パニックになって外に出てなくて本当に良かった。昼間は良いけど、あそこにはもう夜のうちは近づかない方がいいよ」

 

そう言われたんです。


彼女は冗談を言う人ではないし、きっとあそこには良くない何かがいたんでしょう。

 

…もし外に出てしまっていたらどうなっていたのか…考えただけでもぞっとします。

 

妙に安い物件には絶対に何かがあるから、安くても飛びつかない。


そう心に決めた時の話でした。

 

著者/著作:怪文庫【公式】(Twitter