怪文庫

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イネ様

私の母方の祖母の実家には、神棚に、猫と犬が混ざったような置物が置いてあります。

 

小さい頃は、踏み台に乗って、兄と一緒にその神棚に飾ってあった置物を手に取り、遊んでいたことがあります。

 

ですが、それを祖母に見つかると、「あんたたち、やめなさい。イネ様がお怒りになるよ。」と眉間にシワを寄せて怒られました。

 

イネ様ってなんだろう?

 

普段はやさしい祖母が語気を強めたことが強く心に残り、その時に生じた疑問は頭の隅の方に追いやられていました。

 

その祖母が先日、心不全で亡くなりました。99歳で、大往生だったと母の姉が看取った際のことを話してくれました。叔母は、風邪で来られなかった兄のことを心配していました。

 

「あの子に、変なことはなかった?」叔母は兄の容態を知りたがっていました。母が大丈夫、あの子にはイネ様のお怒りはなかったようだ、と話していました。

 

「ねえ、イネ様って、何?」

 

私は子どもの頃に感じた疑問を思い出し、聞いてみました。母と叔母は少し考えてから、そうね、そろそろ話しておいた方がいいかもしれない、と私に向き直りました。

 

「イネ様というのはね、昔からこの集落に伝わる守り神様のことなんだよ。森を司る役目も担っていて、私たちのことも守ってくれる存在なの。でもね、イネ様は、春になると発情期を迎えられるんだよ。その時、間違ってイネ様の祠に近づこうものなら、たちまちイネ様のお相手役となり、そのまま向こうの世界に連れて行かれる。」

 

「向こうの世界?」

 

「そこはイネ様だけの自由な世界で、誰も踏み入れたが最後、戻っては来られない。そう、昔は知らずに旅人なんかが連れて行かれたようだけど、最近は誰も寄り付かなくなって、年頃の子を連れて行かれるという話。昔、あんたたちがイネ様のお飾り物を勝手に取って遊んだことがあるでしょ?おばあちゃんはそれをとても怖がってね、毎日、拝むようになったの。あんたたちが連れて行かれないように、って。」

 

母は、祖母がずっと私たち兄弟のことを思い続けていたことを明かしてくれた。

 

ふと神棚に目をやると、イネ様のお飾り物がピカッと光ったように感じて、ゆっくりと目をそらした。

 

「この集落にイネ様がやってこられたのはもうずいぶんと昔の話だけど、当時はあらゆる食べ物がお供えされててね、そうそう、最近は京都の野菜も一部はこの集落から生まれたものだって話を聞いたことがあるわね。」

 

「イネ様って旅をされてた神さまなんだね。」

 

「お連れには極楽鳥が一緒だったという言い伝えも残っているくらいだからね。あの世の使者かもしれないって、遺跡とかに詳しい学者さんが言ってたこともあるよね。」

 

母は叔母の言葉に頷いた。

 

「イネ様はあらゆる幸福の神さまでもあると同時に、あらゆる不幸の神さまでもあるんだよ。」

 

母の言葉に叔母は一瞬、暗い顔をした。

 

「古い記録によるとね、イネ様の祠をあろうことか、肝試しに使った若い子たちがいてね、その数日後に医者でも分からない湿疹が出たり、急に呼吸が荒くなってそのまま、ってことがあったんだって。心配した家族がお詫びに来て、イネ様に許しを請うたら、その晩を境に若い子たちの不調は治ったらしいんだけど、それからその一族は毎年、祈りを捧げなくちゃいけなくなった。」

 

「それが、うちの死んだおじいちゃんの分家だったんだよ。」

 

私はハッとした。兄のことを心配したのは、そのことがあったからなんだ。

 

「おばあちゃんは、おじいちゃんが死んだ後もずっと祈りを捧げていたの。おばあちゃんが亡くなった今は私たちが毎日祈りを捧げる役目を担うことになって、それで私がここに戻って来たの。」

 

叔母は海外に住んでいたが、祖母が亡くなった朝、空にイネ様の影を見たのだと言う。

見間違いじゃないか、そんなことは思わなかった。

 

「イネ様は献身に祈りを捧げる者に対しては不幸はもたらさない。困ったことがあれば、イネ様を頼ると良い。悔やむこと、謝らなければならないことをした時もイネ様に許しを得るべし。これ、おばあちゃんの最後の日記に書いてあったの。」

 

祖母の筆跡の隣には、何者か分からない黄金色の足跡のようなものがあった。

 

叔母と母は、その足跡のようなものを、イネ様のものだとは言わなかったが、私にはそうだと思えた。

 

「じゃあ、あのイネ様のお飾り物は誰が作ったの?」

 

「……。」

 

「……。」

 

私の一つの質問に、ふたりは口を閉ざした。

 

「ほら、神棚にあったでしょ、イネ様の……」

 

立ち上がり、神棚を見ようとして、ハッとした。一瞬、背後に知らない影があったような気がした。

 

ゆっくりと視線を神棚に移すと、子どもの頃に見たイネ様と思われるお飾り物は黄金のかたまりになっていた。

 

その禍々しいまでに美しい光景にしばし見とれていた私は、肩を叩かれて、あ。と声を上げた。

 

「どうしたの?おばあちゃん。ずっと神棚を見てたけど……。」

 

甲高い子どもの声。

 

おばあちゃん?私のこと?

 

「ママ、おばあちゃん、また神棚見てたよ。今日は良い日だよね?」

 

「そうね。おばあちゃんがああやって神棚を見ている時は今日も穏やかに過ごせる良い日だってことね。」

 

私はしわくちゃになった自分の手を見た。

 

ああ、あれはもう数十年前のことだった。

 

「おばあちゃん、イネ様のお話聞かせて!私もみんなが幸せに過ごせますようにってお願いできるようになりたいの!」

 

孫娘の願いに私は頷いた。

 

母と叔母と兄がイネ様の元に旅立って、もう驚くほど時が経った。残された私が担う宿命は、こうしてまた次の世代に引き継がれていく。

 

「じゃあ、この子のこと、お願いね。お母さん。私、イネ様の御祈りに行ってきます。」

 

「いってらっしゃい。気をつけてね。」

 

神棚には黄金のかたまりが輝いていた。

 

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