振り返っちゃいけない

もちろんこれはフィクションであり、地名や時期もぼかして話すことにする。

 

その日友人が僕の耳に入れたのは、大学内で密やかにささやかれている、しかしどこにでもひとつふたつはありそうな怖い話だ。

曰く、うちの大学の敷地内にある慰霊塔のそばを夏の夜に通ってはいけない、通ると何かが見てきて、その視線の主を見つけた者は帰ってこられない――とか、なんとか。

 

友人の話にある慰霊塔とは、かつて日本を巻き込んだ大きな戦争の際、捕虜として捕らえられ、日本に連れてこられて炭鉱で強制労働をさせられた外国人兵士たちを弔うものである。

僕はこの大学のある地域の出身でないからまったく知らないのだが、地元で生まれ育った友人にしてみれば、小学生の頃からうんざりするほど聞かされる話であるらしい。

では、その怖い話に出てくる視線の主とやらは、その戦争で亡くなった捕虜なのかと友人に問うが、どうも違うらしいぞと友人は答えた。

目撃者が言うには、その視線の主は女であるらしい。

防空頭巾にモンペ姿で、全身をぐっしょりと濡らして、ひたりひたり、と近づいてくるのだそうだ。

「女の姿ってわかってるなら、視線の主を見つけたやつが生きて帰ってるってことじゃないか」

そう僕が言うと、友人は口を開いた間抜けな顔をしてから、「オカルトとかホラーってだいたいそういうものだよな」と愉快そうに笑った。

 

とはいえ、都会出身の僕にとって慰霊塔のように戦争を思わせるものは馴染みがない。

せいぜい教科書で戦争について学ぶ程度で、慰霊塔というものがどういうものかは少し興味があった。

桜が散って葉桜になった頃、僕はふと友人の話を思い出して、広大な敷地の端っこに隠されるようにたたずむ慰霊塔を散歩がてら見に行った。

御影石だろうか、墓石に似た素材のそれは人の背丈をゆうに超える高さで、形もそのあたりの寺でよく見る墓によく似ており、正面には「(地名)戦没者慰霊之塔」と刻み込まれている。

誰かが手入れしているのであろう、苔むしてはいないが、供えられた花はとうに枯れており、周囲を木に囲まれて人が近づかないせいか、ひどく静かに感じられた。

何気なく巨大な「墓」の背後に回ると、裏には観音開きになる扉がついていた。

左右の扉にはちょうど手を入れられるほどの四角い穴が開いており、そこに手を差し込んで扉を開くのだろうと想像がつく。

ただ扉には重々しい鎖と南京錠がつけられていて、何が中に納まっているのかは知れなかった。

くだんの友人に聞けば「慰霊者名簿でも入ってるんじゃないか」と自信なさげな答えが返ってきた。

ありえそうな話だと思い、そして僕らはそのままその話を忘れてしまった。

 

僕らは理系の学部の所属で、その話を聞いた頃はまだ1年生だった。

進級すればするほど研究が忙しくなり、遊べるのは1年生のうちだけだぞと先輩に脅かされた僕らは、当然のように学内のサークルで遊び倒していた。

不真面目な話だが、学内には未成年者に飲酒を勧めるようなサークルもあり、テニスサークルでありながら実際は酒を飲んで交際相手を見繕うようなものまであった。

僕は比較的偏差値の高い真面目な男子校に通っていたこともあり、垢抜けた男女のそういった不道徳さに憧れてしまい、前期試験が終わるなり、彼らに誘われるがまま学内で酒盛りに興じた。

酔った勢いで、少し色っぽい流れになったりもしたのだけれど、それはともかく、その日も夏休みだというのにバイトの隙間を縫うように、サークル棟で開催された飲み会に参加していた。

目当ての先輩といい雰囲気だったのだが、トイレから帰ってみると、先輩は他の男子学生と艶っぽい表情で語りあっており、気づけばどこかへ姿を消していた。

僕は一丁前に気分を害し、ふてくされて酒盛りの場を去った。

それに気づいた例の友人がついてきて、2人で女はあーだこーだと青いことを話しながら帰路につく。

台風が来るという予報のせいか、ひどく湿っぽい夜だった。

 

時計を見ると21時頃だったと思うが、やけになって飲んだ酒の影響で視界が歪み、あまり自信はない。

友人と話しながら酔いを覚まして帰ろうとふらふら歩いていた僕は、ふと、周囲がひどく静かなことに気がついた。

そこで僕は、自分のすぐ目前に例の巨大な「墓」――慰霊塔があるのを見た。

どこをどう歩いたものか、正門と反対側に歩いていたらしい。

「あーあ」

いつの間にか友人も姿を消している。

酔いすぎた僕を面倒に思った友人に置き去りにされたことに気づいて、自分が情けなくなり、僕は小石を蹴飛ばした。

思いのほか飛んだ小石は慰霊塔にこつりと当たったけれど、僕は気にせず踵を返し、慰霊塔に背を向けて正門へ向かった。

 

ひたり、ひたり、

 

と足音が聞こえてきたのはその時だ。

酩酊していた脳が冷や水を浴びせられたように覚醒し、春に聞いた怖い話が突然よみがえった。

水音は確かな質量を持ち、ひたり、ひたり、と僕の背後から聞こえてきていた。

――防空頭巾にモンペ姿で、全身をぐっしょりと濡らして、ひたりひたり、と近づいてくるのだそうだ。

社会科の資料集で見ただけの、戦時中の女の姿が、生々しいまでに僕の脳に像を結ぶ。

そんなわけがない、酔ったせいで何かを聞き間違えているのだ、と頭の中の冷静な部分が指摘する。

そうかもしれない、きっとそうに違いない。

だが、震える膝で歩くこともできない僕の後ろに、未だ湿った足音は響いて聞こえる。

ひたり、ひたり、とそうして確かに、近づいてきているのだ。

僕の足は恐怖で止まり、がくがくと膝が笑って、言うことを聞かない。

やがて足音はすぐ背後まで至り、そのまま僕の左側を抜け、正面に回ろうとしていることに気が付いた。

僕は、ぎゅ、と目をつぶった。

視線の主を見てはいけない。

ならば目を閉じなければならない。

ひたり、ひたり、ひたり、ひた――

足音が、止まった。僕の、すぐ正面で。

――いる。

目の前に、防空頭巾をかぶったモンペ姿の女が。

しっかりつぶった瞼の裏に浮かび上がる女の像に、僕はついに悲鳴を上げて、女がいるであろう場所から顔を背けた。

 

弾みで瞼が開いてしまったのは、どうしてなのか。

 

振り返った、僕の背後。

真っ黒な穴が3つ開いたものがあった。

それは、人の頭だった。

能面よりものっぺりとした、髪も何もない白い頭、目と口と思われる位置に、黒い穴が塗りつぶされたように開いている。

幼児が鉛筆で落書きをしたような歪なバランスのそれは、生きた人のものでは決してありえなかった。

そしてその頭には、長い首がついていた。

その首は何mも伸びていて、思わずその先を視線で追えば、慰霊塔――巨大な「墓」の後ろまで続いていた。

 

あの封印された扉の中から伸びているのだ、とわかった。

 

にや、と口の位置にある穴が逆三角形に歪んだ。

「――――!」

ようやく悲鳴を上げようとした僕の口を、背後からぶよぶよした何かが強く押さえた。
濡れた肉の感触。

見えもしないのに、それが防空頭巾の女の死肉であることを、僕ははっきりと悟ったのだ。

 

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「んで、その子はいなくなっちゃったんだよ」

「なんですかそれ」

私は先輩の話を笑い飛ばした。

「本当だって、その子さ、もういないんだよ。怖いでしょ?」

「でもー、その話を先輩が知ってる時点で、ありえなくないです? 誰も帰ってこられないのに何で先輩知ってるのって」

先輩は口を開いた間抜けな顔をしてから、「オカルトとかホラーってだいたいそういうものだよな」と愉快そうに笑った。

「でさ、今度うちのサークル来ない? まだ何も決めてないんでしょ?」

「でももう夏だし今更……というか、先輩のサークルってテニサーでしょ? 私、運動はちょっと」

「大丈夫大丈夫、テニサーっていうより飲みサー、てか、ヤリサー?」

「やだー、先輩サイテー」

私は先輩の話を笑い飛ばしながら、結局、前期試験が終わったら、夏休みに開かれる飲み会に参加する約束を取り付けられてしまった。

先輩は真っ黒に塗りつぶしたようにも見える黒目の大きな目で「楽しみだね」と、にや、と笑った。

 

著者/著作:怪文庫【公式】(Twitter