数年前のある日の深夜、その夜は最悪だった。

 

仕事が忙しすぎて、残業で帰る頃にはすでに夜中の2時を過ぎていた。

 

普段なら電車で帰るところを、終電を逃してしまったせいで仕方なく徒歩で帰る羽目になった。

 

給料も少なかった当時はタクシーを使う余裕もなかったんだ。

 

帰り道の住宅街は、静かすぎて逆に不気味だった。

 

風も吹かず、遠くの車の音も聞こえない。もちろん外出している人もおらずただ、自分の足音だけが夜道に響いていた。

 

時折後ろを気にしながらただひたすらに夜道を進んだ。

しばらく経った頃、疲れがピークだったこともあって、早く帰りたい一心で足を速めた。

 

その時、ふと気づいたんだ。

 

よーく見ると前方の街灯の下に何かがいることに。

 

はっきりとは確認できなかったがそれはまるで人影のように見えた。

 

こんな時間に?誰か酷い酔っ払いでもいるのかと思ったが、よく見るとピクリとも動かない。影のようにただそこにじっと立っているだけだった。

 

「なんだろう…?」と少し不安に思いつつも、怖い気持ちを押し殺して気にしないようにして歩き続けた。

 

近づくたびに、その“影”が人とは違うと気づいたんだ。

 

普通なら街灯の明かりで顔や服が見えるはずなのに、その影は真っ黒で何も見えない。

 

ただの影の塊のようなものだった。

気味が悪い。でも、無視して通り過ぎようとした。

 

あと少しでその影を追い越すというところで、急にそいつがこっちを向いたように思えた。

 

いや、顔なんてそもそもないんだ。

 

ただの黒い塊なのに、確かに“こっちを見ている”とそう感じたんだよ。

 

視線を突き刺されるような感覚があって、全身に寒気が走った。

その場で固まってしまった俺をよそに、そいつは一歩こっちに向かって近づいてきたんだ。

 

足音は聞こえない。

 

でも、確実にそれが動いているのがわかった。

 

何が起きているのか理解できないまま、「ここで立ち止まっちゃダメだ」と直感的に思い、咄嗟に走り出した。

後ろを振り返る勇気なんてさらっさらなかった。

 

ただ、前を向いて、ただ、全力で走った。

 

息が切れて、足が痛くなっても全く構わなかった。

 

背後には確かに何かがいる。足音はしないのに、その“存在”が後ろを追いかけてきているのがわかるんだ。

 

ようやく家にたどり着いて、鍵を震える手で開けた。

 

飛び込むように中に入って、ドアを閉め、鍵をかけた。

 

安堵の息をつく間もなく、ドアの向こうから「コン、コン」とノックの音が聞こえた。

 

鳥肌が立った。

 

誰がこんな時間に?そう思った。そう思いたかった。

 

いや、違う。さっきの“影”だ。

そのノックの音は次第に大きくなり、「ドンドンドン!」という激しい音に変わった。

 

心臓が止まりそうだったが、恐怖で声も出せない。

 

音がやむのを祈るしかなかった。

 

すると突然、音が止んだ。

 

一瞬の静寂が訪れたけど、それは決して安心できる静けさではなかった。

その時だ。

 

耳元で「お前、見たよな」と低い声が囁いたんだ。

 

指先から全身が凍りついた。振り返りたくない、でも振り返らざるを得なかった。

 

振り向いてみると、そこには誰もいない。

 

でも、何かがいる気配だけは確かにあった。

その夜は一睡もできなかった。

 

布団に潜り込んで震えていたが、部屋の隅が異様に暗く感じられて、視線をそらせなかった。

 

あの“影”がまだそこにいるような、そんな気がしたんだ。

 

早く朝になれ、早く朝になれ、と祈るように朝を待った。

翌朝、恐る恐る玄関を確認すると、ドアには黒い泥のような跡がついていた。

 

指でなぞったような跡で、どうもドアを開けようとしていたことがわかる。

 

触ると乾いているはずなのに、指に何もつかない。

 

拭いても消えないその跡が、その不気味さを一層強めた。

その日から、俺の生活は360度変わった。

 

夜道を歩くことが怖くなり、遅くなる日はお金が掛かろうとも絶対にタクシーを使うようにした。

 

それでも、家の中で感じる“視線”や“気配”は消えない。

 

夜中に目が覚めると、部屋の隅が異様に暗く見えることがある。

 

明かりをつけると何もない。でも、消すとやっぱりまたその場所が気になるんだ。

友人にこの話をしてみたが、当然のように笑われた。

 

「疲れてただけだろ」とか「ただの悪夢だよ」と言われるだけだ。

 

でも、俺は違うとわかっている。あれは確かに存在していたし、今でも俺の周りにいる。

あの日の声。「お前、見たよな」という言葉が今でも頭に響く。

 

何を見たのか、あの“影”が何だったのか知ることはないだろう。

 

でも、知ることができたとしても、俺はそれを知りたいとは思わない。

時間が経つにつれ、その“気配”を感じる頻度は減ってきたけど、完全に消えたわけじゃない。

 

特に雨の日や、深夜に誰もいない道を車で通る時、ふとバックミラーに何かが映るんじゃないかと感じることがある。

 

振り返ってはいけない。それだけはわかっている。

でも、いつかもう一度、あの“影”と向き合う日が来るのかもしれない。そう思うと、今でも体が震えるんだよ。

 

著者/著作:怪文庫【公式】(Twitter