奥入瀬渓流

青森県に数日旅行で訪れ、一人で奥入瀬渓流を歩いた時のことです。

 

青森に来るのは初めてで、十和田湖から流れ出る奥入瀬の景色がSNSで素敵だったので、どうしても目にしたく新幹線を利用して訪れました。

 

紅葉にはまだ早い時期でしたが、渓流沿いは人も少なく、苔むした岩と澄んだ水の音だけが続く静かな時間でした。私はSNSで見たような景色に心が打たれておりました。

 

昼間は本当に気持ちが良く、写真を撮りながら何キロも歩きました。阿修羅の流れを過ぎ、名前もよく分からない小さな滝の前で腰を下ろし、水筒のコーヒーを飲んだのを覚えています。

 

その時、ふと「ここは時間が止まっているみたいだな」と思いました。観光地というより、自然の一部になったような、不思議な感覚でした。デジタルデトックスにもなるような場所でもありましたね。

 

問題は、宿に戻る前、少し欲張って夕方近くまで渓流に残ってしまったことです。

 

日が傾き始めると、辺りは空気が一気に冷え、霧が川沿いから立ち上ってきました。山の天気は変わりやすいと聞いてはいましたが、想像以上でした。

 

道は一本道のはずなのに、霧のせいで数メートル先も見えないほどでした。人の気配はなく、聞こえるのは水音と、どこかで鳴いている鳥の声だけ。

 

少し心細くなり、早足で歩いていたその時でした。後ろから、誰かが砂利を踏むような音がしたのです。

 

振り返っても、誰もいません。観光客が来る時間帯はとっくに過ぎているはずでした。気のせいだと思い、また歩き出すと、今度ははっきりと聞こえました。

 

「……〇〇(私の名前)」

 

確かに、自分の名前を呼ばれたように感じたのです。声は低くも高くもなく、男か女かも分からないですが、多分女性でした。ただ、耳元ではなく、少し離れた霧の中から響いてきました。

 

思わず立ち止まり、心臓が嫌な音を立てているのが分かりました。聞き間違いか、そう思おうとしましたが、しばらく人の気配がないのでさらに不安でした。声のした方を見ても、霧が揺れるだけでした。

 

スピリチュアル界隈では十和田湖は神聖な場所とも言われているので、もしかしたら神様かも……。っなんて切り替えてポジティブに考えるようにしました。

 

その瞬間、渓流の音が急に遠のいたような感覚に襲われました。

 

音はしているのに、頭の中に入ってこない。代わりに、さっきの声が、もう一度聞こえた気がしました。今度は、はっきりと「こっちだよ」と。

 

私は思わず足がすくみました。

 

正直に言えば、逃げたい気持ちと、正体はなにか確かめたい気持ちが半分ずつありました。でも、体は言うことを聞かず、その場に立ち尽くすしかありませんでした。

 

しばらくすると、急に霧が風に流され、視界が少し開けました。

 

そこには、昼間に休憩した、あの小さな滝がありました。確かに通り過ぎたはずの場所です。戻った覚えはありません。

 

半ばパニックになり急に寒気がして、視界も悪くなってきて私はぞっとする感覚に陥りました。時間も距離も、私の中でずれたようでした。

 

ですが次の瞬間、遠くから車のエンジン音が聞こえてきました。観光バスか、宿に向かう車だったのだと思います。その音を合図にしたように、霧は一気に薄れ、滝の音も、いつもの奥入瀬の音に戻りました。

 

私は我に返り、ほとんど走るようにして遊歩道を抜けました。駐車場に着いた時、膝が笑っているかのように震えが止まりませんでした。しばらく、外で心を落ち着かせて車にのりました。心を落ち着かせてはいましたが、車内では呼吸が整っていませんでした。

 

宿に着いたのは、もう完全に日が落ちてからでした。

 

フロントには、白髪混じりの小柄な女性が一人いて、木のカウンターの向こうで作業をしていました。私の顔を見るなり、「おかえりなさいませ」と、穏やかに声をかけてきました。

 

その何気ない一言で、張り詰めていた緊張が一気にほどけ、私は思わず、奥入瀬で起きたことをそのまま話してしまったのです。すると、その女性が少しだけ困ったような顔をして言いました。

 

「奥入瀬ではね、たまに“呼ばれる”人がいるんですよ。悪いものじゃないけど、返事をしなくて正解でしたね」

 

その先は詳しくは教えてくれませんでした。気になりながらも私の中で何か不穏な空気が漂ったので深掘りをすることをやめました。ただ、その方は「日が暮れる前には山を出ること」「一人の時は、名前を呼ばれても振り返らないこと」だけ、静かに言われました。

 

あれから何年も経ちますが、奥入瀬渓流の写真を見るたびに、あの霧と声を思い出します。

 

怖かったのに、不思議と嫌な記憶ではありません。あの場所には、人間とは関係ない時間や空気が存在していると感じています。

 

怖い体験をしましたが、今ではなぜか良い印象を受けております。

 

そして、もしまた私が奥入瀬渓流を訪問した際に名前を呼ばれても、私はきっと前だけを見て歩くと思います。2回目も期待しながら歩くことは間違いないでしょう。いつか再訪問できる日を楽しみに待っております。

 

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