見守り役

俺が昔、林業の手伝いで隣町ではあるが山のほうに滞在していた時の話です。

そこは観光地から外れた小さな村で、地元の人はよそ者にあまり口を開きませんでした。

俺も最初は、数日だけの滞在だから気にすることはないだろうと思っていました。

ただ、村に足を踏み入れた瞬間から、どこか普通じゃない空気が漂っているのに気づきました。

 

初日に村の世話役(現場監督的な人)の中年男性に会いました。

彼は無口で、目だけがやけに動き回っているような印象でした。

その時、「夜だけは北側の道に行かないように」と言われました。

理由を聞くと、暗いし危なし、動物も多いからだということでした。でも、その言い方が妙に釘を刺すような口調で、何か隠しているのが感じられました。

危険なら昼間も止めるはずなのに、夜だけ注意を促すというのが不自然に思えたのです。

 

二日目の昼、作業の合間に村を歩きました。

北側の外れに、ひときわ古びた木造の家がありました。

ほとんどの家は改修されていて新しい板や瓦に覆われているのに、その家だけは昔のまま、時間が止まっているような不気味さを持っていました。

軒先には苔が生え、壁は黒ずみ、木はねじれたように老いていました。

 

近づくと、玄関の上に獣の骨が紐で吊るされているのが見えました。白く細長い骨が、風もないのにゆっくり揺れていました。

俺は思わず息をのんで足を止めました。

 

何のために吊るされているのか、誰が置いたのか、全く分からない。でも、何かが俺をじっと見つめている気配がしました。

 

その時、背後から声がしました。

振り向くと、村でも無口で知られている中年の男が立っていました。

表情は怒っているでも悲しんでいるでもなく、ただ見下ろすような目で俺をじっと見ていました。

言葉はなくても、そこにいるだけで圧力を感じました。

 

「そこは村の人間でも近づかん」

そうだけ言うと、男はゆっくりと歩き去りました。声のトーンや動作が普通じゃなく、何かを警告しているというより、“監視されている”感覚を与えるものでした。

 

その後、公民館に戻り、世話役に家のことを聞いてみました。

しばらく黙ったあとで、「昔から見守り役をしてた家なんだよ」とだけ言われました。

見守り役って何のことか聞こうとしたけど、周りの手伝ってくれていた村人が全員、こちらをちらっと見て、それ以上質問できる雰囲気ではありませんでした。

 

その夜、作業で疲れて布団に入りましたが、真夜中に外から妙な音が聞こえました。

何かが土を擦るような音で、リズムは不規則。

耳を澄ませると、途中で人の息遣いのようなものが混じっていました。

怖くて窓から外を見ることはできませんでした。

 

翌朝、外に出ると土の上に細長い跡が残っていました。

それは例の家の方向に続いていて、まるで夜中に何者かが歩いたような痕跡でした。

周囲には足跡はなく、動物のものとも違う。

あの家から出てきたのか、それとも俺の想像なのか、判断できませんでした。

 

作業最終日、準備をしていると、世話役の年老いたお母さんが小声で言いました。

「あなたは運が良かったよ。昔、あそこに入った人はみんな気が変になって帰ってきたから」

詳しく聞こうとしても、「見守り役に子孫はいないのに、なぜか家は続いているんだよ」とだけ言って話を切られました。

 

確かにあの家は、人が住んでいるのか住んでいないのかも分からないが毎晩窓には明かりが点いていました。

風もないのに、時折木の軋む音や小さな影の揺れが見えることもありました。

 

俺が滞在していた間、村の人たちはその家について口を閉ざしていました。だが、誰もがその存在を知っていて、夜にはそっと距離を取って歩いていました。

その家には、村の人間ですら理解できない何かが宿っている気配がありました。

 

ある日、村の広場で年配の女性たちが小声で話しているのを聞きました。北側の家についての話です。

「昔、あの家に入った者は…」

よく聞き取れませんでしたが、恐怖と警告が混ざった空気が伝わってきました。

祭りや集会の時でも、誰もあの家の方向を向こうとしませんでした。ただ、誰かが無意識に背を向け、視線を逸らすのです。

 

今思うと、村の外れの山道を歩くと、夜になると何かが木の間からこちらを覗いているような錯覚に襲われました。風の音でも、木の枝の軋みでもなく、誰かの視線。何度か振り返っても、そこには人影はありませんでした。

でも、感覚としては確かに“見られている”。背筋が凍る感覚でした。

 

作業が全て終わり、その晩、作業の疲れで寝ていた俺の耳に、窓の外から低いうめき声が聞こえました。

最初は風のせいかと思いましたが、声は少しずつ近づき、家の周りを回るように響きました。

布団をかぶってじっとしていると、家の影が窓の中でわずかに揺れました。光は点いているのに、人の気配がない。

恐怖心と好奇心が入り混じり、身動きできなくなりました。

 

村を離れる日、世話役の中年男性がそっと言いました。

「忘れたほうがいい。あの家のことは、忘れるのが一番だ」

でも、忘れられるわけがありません。

見守り役の存在、夜の音、誰も近づかない家の明かり。全てが俺の記憶に刻まれ、今も頭から離れないのです。

 

十年以上経った今でも、あの家を思い出すとぞっとします。

何を守っていたのか、何を見ていたのか。村の住民は口を閉ざしていましたが、行動や視線、声のトーンに恐怖がにじみ出ていました。

あの家を避けるように暮らす姿は、まるで何かを畏れているかのようでした。

俺にはわかります。あの家に宿る“見守り役”は、ただの人ではない何かが関わっていた。人の理屈では計れないものが、そこには確かにいたと思う。

 

あの家は今も山の奥で静かに佇み、誰も近づかないまま光を灯し続けているでしょう。

人間の狂気と、オカルトの境界。あの村で目撃した全ては、俺にとって忘れられない恐怖の記憶です。

 

著者/著作:怪文庫【公式】X(旧Twitter)