これは私が十数年前、都内の不動産会社で管理物件の巡回をしていた頃に体験した、今でも説明のつかない不気味な出来事です。
当時、私は練馬区の端にある、昭和40年代に建てられた古い木造アパートを担当していました。
入居者はわずか二名。一階に住む高齢の女性と、二階の一番奥、203号室に住む高齢の男性です。
この203号室の住人からは一度もトラブルがなく、苦情も出ないため、私は数年間一度もその男と顔を合わせたことがありませんでした。
異変に気づいたのは、その年の十一月のことでした。
定期巡回でアパートを訪れると、203号室のドアの隙間に、異様な数の「紙」が挟まっていたのです。
それはチラシなどではなく、すべて手書きの半紙でした。驚いて近づくと、そこには墨でびっしりと、鏡文字(左右反転した文字)で「おはいりください」と書き殴られていました。
これでは玄関ドアは開きません。紙の傷み具合からも、もう何日もドアは開いていないようです。もちろんインターホンにも応答はありませんでした。
私は胸騒ぎを覚え、やむを得ず管理会社のマスターキーを使って室内を確認することにしました。
立ち合いに警察を呼ぶのはルールですが、アパートの下に着くと、なぜか私はまず安否確認が優先だと思い一人でドアを開けてしまいました。
ドアを開けた瞬間、鼻を突いたのは古い線香と、腐った果実が混ざったような、甘ったるくも吐き気を催す臭いでした。
室内は、想像を絶する光景でした。
家具という家具がすべて「逆さま」に置かれているのです。机は脚を天井に向け、棚は中身をぶちまけた状態で逆さに積み上げられていました。そして、部屋の中心には一脚の椅子があり、その上には「人間のような形」に縫い合わされた、等身大の布人形が座らされていました。
人形の顔には、鏡文字で「ぬし」と書かれた紙が貼り付けられており、その足元には、真っ赤に熟した柿が何十個も、床が見えないほど敷き詰められていました。
恐怖で足がすくみましたが、さらに異常だったのは壁一面に貼られたカレンダーです。
そこには「十一月」が延々と繰り返されていました。本来なら十二月になるはずのページをめくっても、また新しい十一月のカレンダーが現れる。そのすべての日付には、黒い丸印がつけられていました。
ふと、背後に気配を感じて振り返りました。
そこには、老女が立っていました。彼女は暗闇の中で口角を異様に吊り上げ、声にならない声で笑いながら、私にこう囁いたのです。
「ああ、あんたが供物かい?」
その言葉を聞いた瞬間、私の意識は暗転しました。次に目を覚ました時、私は自分の車の運転席に座っていました。
時刻は夕方の五時。アパートの前に車を止めた記憶まではありますが、部屋に入った記憶が霧がかかったように曖昧でした。
ですが、ふと助手席を見るとそこには夢の中で見た「真っ赤に熟した柿」が一つ、転がっていました。
そしてさらに驚いたのが、今日の日付が、どこを確認しても「十二月一日」になっているのです。
私の中では、昨日は十一月三十日でした。さらには、私の手帳もスマホの履歴も、数日間の空白がありました。
私は丸一日、どこで何をしていたのか全く記憶がないのです。
ひとまず上司に来てもらう事にしました。
怯えながらあのアパートを再訪しましたが、203号室はもぬけの殻でした。ドアに挟まっていた紙も家財道具一切が消えており、何一つ物はありませんでした。
私は上司にマスターキーと柿を見せ、先ほどの話をしましたが、上司は私に引いていました。
事務所に帰り、管理会社のデータを確認すると、一階の老女は「三年前」に亡くなっており、二階の203号室はずっと「空室」のまま募集を止めていたという記録に書き換わっていました。
私が部屋で見た逆さまの家具や、あの布人形は何だったのか。なぜ私はあの時、玄関を開けるような暴挙に出たのか。
今でも、あの甘ったるい臭いを放つ、熟しきった柿を見ると、私はあの数日に何かを置いてきてしまったのではないかと不安になります。
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