これは私が大学生の頃、夏休みに母方の実家があるM県のK村へ帰省した時に体験したお話です。
K村は今でこそ市町村合併で名前が消えてしまいましたが、当時は四方を深い山に囲まれた、いわゆる「限界集落」の一歩手前のような非常に静かな場所でした。
その村には、一つだけ妙な決まり事がありました。
村にある全ての家の玄関先に、一箇所だけ「赤い麻紐」が結ばれているのです。大抵は門柱だったり、玄関の取っ手だったりするのですが、私の祖父の家では、庭にある古びた蔵の取っ手にその紐がしっかりと結ばれていました。
子供の頃からそれを見ていた私は、単なる魔除けか何かの風習だろうと深く考えていませんでした。ですが、その年の夏、私は取り返しのつかない好奇心から、その紐を解いてしまったのです。
その日は猛烈に暑い日で、祖父は畑仕事、祖母は近所の集まりで出かけており、私は一人で留守番をしていました。
手持ち無沙汰だった私は、蔵の整理でもして珍しいものでも見つけようと思い、蔵の前に立ちました。取っ手に結ばれた赤い紐は、長年の雨風にさらされているはずなのに、なぜか新品のように鮮やかな赤色をしていました。
指をかけると、驚くほど簡単にスルスルと解けてしまいました。
蔵の重い扉を開けて中に入りましたが、中は湿気臭い埃にまみれた古い農機具や木箱があるだけで、特に面白いものは何もありませんでした。失望してすぐに蔵を出たのですが、その時、私は解いた紐を結び直すのをすっかり忘れてしまったのです。
異変が起きたのは、その日の夕方でした。
日が沈みかけ、山際がどす黒い紫に染まる「逢魔が時」の時間帯です。祖父母も帰宅し、居間で夕飯を食べていると、不意に玄関のチャイムが鳴りました。いえ、チャイムというよりは、玄関の引き戸を「コン、コン、コン」と、指の背で叩くような規則正しい音が響いたのです。
祖父が「こんな時間に誰だべな」と立ち上がり、玄関へ向かいました。私もなんとなく気になって、後ろをついていきました。
祖父が戸を開けると、そこには一人の男が立っていました。いえ、「男に見えた」というのが正しいかもしれません。
薄汚れた背広を着て、手には古いビジネスバッグを持っています。一見するとどこにでもいるサラリーマンなのですが、街灯もない暗闇の中で、その男の姿だけが妙に輪郭がはっきりとして見えました。
男は頭を深く下げていたので顔は見えませんでしたが、掠れた、それでいて耳に直接響くような不気味な声でこう言いました。
「……お約束の、刻限(こくげん)でございます。通していただけますか」
祖父はその瞬間、石のように固まりました。そして、ガタガタと震えながら、絞り出すような声で「……まだだ。まだ紐は解けておらんはずだ」と言いました。
男は顔を上げないまま、すっと右手を上げました。その指先が指していたのは、庭にある蔵の方でした。
私は心臓が止まるかと思いました。蔵の取っ手からは、私が解いたままにした赤い紐が、地面に力なく垂れ下がっていたのです。
祖父は私を振り返り、見たこともないような恐ろしい形相で「お前、あれを解いたんか!」と叫びました。
私が答えられずに立ち尽くしていると、祖父は無理やり私を奥の座敷へ押し込み、「絶対に外を見るな、声を出すな」と強く言い含めました。
座敷の襖の隙間から、玄関の方で祖父と祖母が必死に何かを唱えるような声が聞こえてきました。そして、それ以上に不気味だったのは、あの「男」の声でした。
「開いているのに、なぜ。道理が通りません。通してください。仕事が遅れます」
男の声は次第に重なり、まるで数十人の人間が同時に喋っているような、不快な地響きのような響きに変わっていきました。
それから一時間ほど経ったでしょうか。突然、外で「パチンッ」と何かが弾けるような大きな音が響き渡りました。
しんと静寂が訪れ、しばらくして祖父が座敷に来ました。祖父の顔は土色で、額からは異常な量の汗が流れていました。
祖父が語ったところによると、あの赤い紐は「道の境界」を誤魔化すための目印だったそうです。あの村の道は、時折、あちら側、いわゆる死者の国か、あるいはもっと別の異界?と重なることがあり、赤い紐を結んでいる間だけ、その家は「そこには存在しない壁」として認識されるのだといいます。
私が紐を解いたことで、あの蔵の入り口が「異界の駅」か「検問所」のようなものとして認識され、あちら側の「役人」のようなモノが中に入ろうとしてきたのだそうです。
「お前が解いた紐は、単なる紐じゃない。あの男にとっては、通行許可証のようなものだったんだ」
祖父はそう言って、私を深く哀れむような目で見つめました。
結局、その夜のうちに私は村を追い出されるようにして実家へ帰されました。祖父からは別れ際に「二度とこの村には来るな。お前はもう、あちら側に『顔を覚えられた』からな」と告げられました。
あれから十年以上が経過しましたが、私は一度もK村には戻っていません。祖父母も亡くなりましたが、葬儀への出席さえも親戚に止められました。
ただ、気になることが一つだけあります。
最近、都内のマンションで一人暮らしをしている私の部屋の玄関ドアに、時々、赤い糸屑のようなものが落ちていることがあるのです。そして、深夜。誰も来るはずのない時間に、玄関のドアを指の背で「コン、コン、コン」と叩く音が聞こえてきます。
私はまだ、一度もドアスコープを覗いていません。もし覗いてしまったら、あの時の「顔のない男」が、「刻限です。仕事の時間ですよ」と言って、こちらを覗き返しているような気がしてならないからです。
あの時解いてしまった赤い紐は、今も私の身の回りに見えない「道」を作ってしまっているのかもしれません。
皆さんも、古い家や村で見かける「よく分からない結び目」には、どうか気をつけてください。
著者/著作:怪文庫【公式】X(旧Twitter)