聞こえる足音

子どもたちと3人でこの家に引っ越してきてもう半年が経つ。日当たりも良くて静かな住宅街だし最初はここなら落ち着いて生活できそうって思ってました。

 

ですがある時期から家の空気が少しずつ変わっていった。

 

気づいたのは私が残業で遅めに帰った日の夜だった。

 

玄関を開けた瞬間妙に家の中がざわついてるように感じた。子どもたちはもう寝ている時間だし家の中は静かなはず。だけどリビングの奥からひそひそ話すみたいな小さな音がした。

 

最初はテレビつけっぱなしなのかなって思って近づいた。でもテレビは消えていた。

 

照明の光が家具に反射して部屋中がいつもより広く見えた。

 

その時2階からトン、トンと人が歩く足音みたいな音が聞こえた。

 

もちろん子どもたちはもう寝ている。しかもあの子たちの歩き方ってもっとバタバタしてるし、あんなに一定のテンポで歩くはずがない。

 

誰かが歩いてるみたいに、ゆっくりしっかりした足音だった。

 

怖くなりながらも寝室を確認しに行くと息子も娘も普通に眠っていた。

 

でも私が戻って部屋の電気を消した瞬間足音はピタッと止まった。

 

その日から家の中に誰かいるんじゃないかっていう感覚が少しずつ強くなっていった。

 

一番最初に言い出したのは8歳の息子だった。

 

夕飯を食べてる時に急に食器を置いてリビングの隅を指さしながらお母さん、あそこ…誰か立ってるよって言った。

 

私は反射的にえ?って言ってその方向を見たけど何もいなかった。

 

息子は続けて、いつも立ってる時といなくなる時があると当たり前みたいに説明してきた。

 

最初は子どもの想像力かな”と思おうとしたけど息子の顔は本気だったし何よりその隅のあたりは前から少しだけ暗く見える場所だった。照明が届いてるはずなのにそこだけ色が沈んでるように見える。

 

数日後今度は5歳の娘が寝る前に私の服の裾をぎゅっと掴んで今日のおじちゃん、リビングにいなかったよと笑顔で言ってきた。

 

おじちゃん?って聞き返したら娘は普通に頷いていつもお兄ちゃんの後ろにいるおじちゃんと息子に向かって指をさした。

 

私はその瞬間全身の毛穴が一気に開くような感覚になった。

 

息子は驚いた顔でお前も見えてるの?と娘に聞き娘は無邪気に、うん。と答えた。

 

子ども二人が同じ何かを見ている。

 

もうただの気のせいや子どもの勘違いなんかじゃないと悟った。

 

その頃から、夜になると決まって家の中で音が鳴るようになった。

 

リビングの棚がカタっと揺れたり、誰もいないのに階段を一段だけ踏むようなミシッという音がしたり。

 

特にひどかったのは深夜に聞こえる足音。

 

リビングから廊下に向かってゆっくり近づいてくるように聞こえる。

 

子どもを起こさないように息を潜めてると足音は寝室のドアの前で止まる。

 

そしてしばらく動かない。

 

まるでドアの向こうからじっと私たちを見ているみたいだった。

 

怖くて眠れない日も多くなったけど、子どもたちに不安を悟られたくなくて普通のフリをして日常を続けた。

ある日、寝つけなくて深夜1時過ぎまで起きてた。

 

暗い部屋の中でスマホをいじっていると、寝室の入口がフワっと暗くなった。

 

誰かが立てば影になる場所だけどもちろんそこには誰もいない。と思った瞬間カサッと布団の端が誰も触っていないのにほんの少しだけ沈んだ心臓がドクンと跳ねた。

 

息を止めて動かずにいると今度は私のすぐ横で吐息みたいな音がした。

 

振り返る勇気は完全になかった。

 

ただ耳の近くで確かに誰かが息をしていた。

 

次の瞬間娘が突然泣きながら目を覚ました。

 

おかあさん、おじちゃんが布団の上に座ってる。

 

その言葉で体が凍りついた。

 

私の視界には何も見えなかったけど娘の震え方は本物だった。

 

息子も気づいたのか起き上がり今日は目がないよ。と震えた声で言った。

 

その瞬間寝室の空気が一気に冷たくなった。まるで冬の外にいるみたいに呼気が白くなった。

 

私は叫びそうになるのを必死でこらえて子どもたちを抱き寄せた。

 

誰もいない空間を避けるようにして寝室の電気を勢いよく点けた。

 

その瞬間だけ影がスッと床に消えたように見えた。

 

それ以来、家の中の音は少し弱くなってきた。

 

足音も聞こえる日と聞こえない日がある。

 

子どもたちも前ほどおじちゃんのことを言わなくなった。

 

だけど、リビングの隅だけは今でも暗いまま。夜ふとそこへ視線を向けると影が揺れたように見える時がある。

 

息子は気づいているのかそこを絶対に見ないようにしているし娘は気配が近づくと私の腕にしがみつく。

 

完全に消えたわけじゃない。ただ、今は静かにしてるだけみたいな感じがする。

 

そして最近私はまた夜遅く帰った時に気づいた。

 

玄関の床に濡れたような足跡が一つだけついていた。

 

内側からついているのに靴の跡じゃない大人の裸足の形。

 

その足跡はリビングの暗い隅へまっすぐ伸びていた。

 

あの足跡を見つけた日の夜から私はこの家の空気が明確に変わったように感じていた。

 

前までは耳を澄まないと分からないような気配だったのに今ははっきりと何かがいると分かる。

 

息子も娘も敏感に気づいていていつもより私にまとわりつくようになった。特に娘は夜になると急に泣いたり、私が少しでも席を外すと後追いしてくる。

 

そんなある日息子が学校から帰って来るなり玄関で立ち止まった。

 

お母さん、家の中前より重くない?その言葉に返事をしようとした瞬間リビングの電気が一瞬だけ明滅した。

 

子どもたちは驚いて私に寄ってきた。

 

私は大丈夫だよと落ち着いた声で言いながらも背中には冷たい汗が流れていた。

 

その日の夜子どもたちを寝かしつけようとした時息子が突然布団の中から小声で言った。

 

お母さん実はさ、俺知ってるんだ。あのおじちゃんが何でついてきてるのか。

 

私は驚いて息子の顔を覗き込んだ。

 

息子は天井を見上げながら淡々と話し始めた。

 

学校行くときさ、毎朝うちの角のところでおじちゃんが立ってたんだよ。ボロいスーツ着てさ、なんかお母さんの方を見てるみたいだった。

 

そんな話、私は初めて聞く。

 

でもある日、いきなりいなくなったの。そしたら、その日の夜から家でおじちゃんを見るようになった。

 

息子は静かに続けた。

 

たぶんあの人死んだんだと思う。その瞬間部屋の空気が凍り付いたように感じた。息子の声は震えていなかったけれどその内容はあまりにも重かった。

 

息子が話し終えて少ししてから今度は娘がむくっと起き上がった。

 

目を半分閉じたまま夢と現実の間をさまよっているような状態でこう言った。

 

おじちゃんね笑ってるときと怒ってるときの顔があるよその言葉で私は心臓が一気に跳ねた。

 

怒ってる時はね、目が真っ黒で、お口がないよ娘は空中を指さしながら続ける。

 

でも今日のおじちゃん来てたけどずっと泣いてたよ、泣いていた?娘はそのまま私の腕をギュッとしがみついて寝落ちしたでも私は眠れなかった。

 

泣いていたそれは恨みや攻撃性じゃなくまるで助けを求めるような気配のように聞こえた。

 

深夜再びあの足音が始まった。トン、トン、トン。今度は階段をゆっくり上がってくる音だった。

 

私はスマホを握ったまま固まり息をするのさえ怖かった。

 

足音は寝室の前で止まる。いつも通りの流れのはずだった。

 

しかしその日は違った。

 

寝室のドアが、数ミリだけ開いた。私は声にならない悲鳴を飲み込んだ。

 

子どもたちは私にしがみついて震えている。

 

そのすき間から黒い影がゆっくりと伸びるように見えた。

 

人の形を保ちながら頭だけが少し前に揺れている。そしてかすかに聞こえた。帰りたい。その声は男の声だった。

 

怒りでも恨みでもなく必死で絞り出すような弱い声。

 

勇気を振り絞って私は震える手で電気のリモコンを押した。

 

パッと明かりがついた瞬間影は煙みたいにスッと消えた。

 

でもその一瞬私ははっきりと見てしまった。

 

ドアのすき間に立っていた男の顔。目は深い影になっていて口は薄く結んだまま悲しそうに歪んでいた。

 

怖いというより助けを求めている人間の顔に近かった。

 

その夜を境に足音はぴたりと止んだ。

 

棚も揺れない。影も揺れない。娘も息子もおじちゃんを見たと言わなくなった。

 

リビングの暗い隅も以前ほど重い感じがしない。まるで成仏したかあるいはここから離れていったか。

 

ただ、ひとつだけ気になることがある。

 

翌朝ゴミを出しに外へ出た時家の前の道の向こう側。

 

あの角のところに花束が置かれていた。誰が置いたものかは分からない。

 

でも息子が言っていたおじちゃんがいつも立っていた場所だった。

 

家の中はあの日以来ずっと静かで子どもたちの笑い声だけが戻ってきた。

 

著者/著作:怪文庫【公式】X(旧Twitter)