いないはずの客

数年前の秋、仕事の締め切りに追われてボロボロになっていた私は、突発的にどこか遠くへ行きたいと思い立ちました。

 

行ったことがない場所にしようと向かったのは、長野県下高井郡にある温泉です。

 

その場所は、石畳の道が狭い路地に続いていて、夜になるとカランコロンと下駄の音が響くき、まるで時間が止まったような、不思議な磁場を感じる町だとSNSで見かけたので、私は木造建築が重厚な、少し年季の入った旅館に宿を取りました。

 

その日は珍しく深い霧が出ていて、街灯がぼんやりと滲んでいるのが、どこか別の世界への入り口みたいで少し怖くて、でもワクワクしたのを覚えています。

 

事件が起きたのは、深夜の2時を回った頃でした。

 

やはり旅先でも仕事が気になり、もってきていたパソコンでその時間まで仕事をし、疲れを癒したくて、一人で誰もいないはずの大浴場へ向かったんです。

 

脱衣所には私のカゴしかなく、貸切状態。

 

硫黄の香りが立ち込める中、熱い湯に身を沈めると、ようやく体の中の強張りが解けていくような気がしました。

 

その時です。

 

洗い場の方から、カツン、カツンと桶を床に置くような音が聞こえてきました。

 

最初は、誰か入ってきたのかな、と思ったんです。

 

でも、霧のせいか、それとも湯気のせいか、周囲の音が必要以上にクリアに聞こえるのに、人の気配だけが全くしない。

 

誰かいればどうもと声をかけようとしていましたが、鏡越しに見た洗い場には、誰もいないんです。

 

そんな時です。シャワーが出るシャーという音だけが響き始めました。

 

もちろん誰もいません。

 

私はもうそちらを見るのを止めました。

 

この時、不思議なことに恐怖よりも先に、ああこの人も疲れを癒しにお湯に浸かりたかったんだなという変な納得感が湧いてきたんです。

 

そのくらい、その場所の空気が日常と地続きで、でもどこかズレていました。

 

私はゆっくりと湯船から上がり、脱衣所に戻りました。

 

ふと振り返ると、さっきまで誰もいなかった洗い場の床が、一箇所だけ濡れていて、そこから脱衣所の方へ向かって、小さく水滴が点々と続いていました。

 

それは、私自身の水滴ではありません。

 

その足跡か水滴は、脱衣所の古い木製の戸棚の前で、パタリと消えていました。

 

その棚の番号は四。同じ木の棚ですが、そこだけ使い古したような、少し他とは違う年季を感じました。

 

宿の主人に翌朝、感謝ついでに何気なく聞いてみたんです。

 

あのお風呂の四番の棚、なぜあんなに年季が入っているのかと。

 

すると主人は、少し困ったような、でも懐かしむような顔をしてこう言いました。

 

「ああ、あそこは昔、湯治に来ていたお客さんが自分専用にしていた場所なんです。もう何十年も前の話ですがね。今でも時々、お湯が恋しくて使っているのかもしれませんね」

 

霧が晴れた後の、不思議な余韻。

 

その話を聞いた時、不思議と嫌な気持ちはしませんでした。

 

むしろ、この世には説明がつかないけれど、誰かの想いが場所を借りて息づいていることがあるんだな、と。

 

チェックアウトの際、宿の玄関を出ると、昨夜の霧が嘘のように晴れて、鮮やかな紅葉が目に飛び込んできました。

 

冷たい山の空気を胸いっぱいに吸い込んだ瞬間、ああ、私もまた明日から頑張れると、心に澱んでいたものが消えている気がしました。

 

オカルト、と言ってしまえばそれまでかもしれません。でも、あの夜に私が感じ取った何かは、決して冷たい幽霊ではなく、私と同じように日々の疲れを癒しに来た、一人の旅人だったんじゃないか、今でもそう信じています。

 

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