これは僕が数年前、山梨県の大月市に住んでいた頃に体験した話です。
大月市といえば、桃太郎伝説があったり、切り立った岩壁が特徴的な岩殿山(いわどのさん)があったりと、どことなく古風で少し不気味な雰囲気を感じさせる場所が点在しています。
当時、僕はそんな大月駅の近くにアパートを借りて、都内の職場まで中央線で通勤していました。
仕事が忙しく、帰宅するのはいつも深夜。大月駅に降り立つと、駅前こそ街灯がありますが、少し歩けばすぐに街灯もまばらな暗い夜道になります。
その日は金曜日で、仕事でミスをしてしまい、ひどく落ち込んでいました。
いつもなら駅前の国道を真っ直ぐ歩いて帰るのですが、その夜はどうしても一人で静かに歩きたくて、あえて岩殿山の方へ向かう旧道を通ることにしたんです。
岩殿山の麓には古い住宅地があり、さらに進むと桂川に架かる橋があります。その辺りは夜になると本当に静かで、自分の足音だけが響くような場所です。
橋を渡りきったあたりで、ふと見慣れない細い路地があることに気づきました。
そこは何度も通っているはずの道でしたが、その夜だけは街灯の光が吸い込まれるような奇妙な暗がりの入り口が口を開けていたんです。
(こんなところに道あったのか)好奇心というよりは、何かに引かれるような感覚でその路地に入り込みました。
少し進むと、急に周りの空気が変わったのが分かりました。今思うと、それまで聞こえていたはずの中央線の電車の音や、遠くを走る車のエンジン音がピタリと止んだんです。耳に膜を張られたような、完全な無音に近かったです。
そして路地を抜けると、そこには信じられない光景が広がっていました。
そこは昭和の時代で時間が止まったかのような、古めかしい商店街でした。
大月駅の反対側には確かに古い商店街がありますが、そこではありません。
建物の配置も看板の内容も、僕の知っている大月市とは明らかに違いました。かろうじて覚えているのが「〇〇精肉店」「スナックあけみ」「玩具のマルシン」など……。看板にはそう書かれていて、どの店も薄暗い電球がついているのですが、人の気配が全くありません。
またおかしいと思ったのは、その商店街の地面です。アスファルトではなく、妙に柔らかい砂地のような質感でした。
人がいない事に怖くなって引き返そうとしましたが、なんだか懐かしい街並みを散策したいという気持ちもありました。明るい時にまた来ようと思ったくらいです。
ただ今あるのはどこまでも続く古い商店街の夜景だけでした。
この通りはどこに出るのだろう。などと歩きながら考えていると、前方から誰かが歩いてくるのが見えました。
ようやく人に会えたと安堵したのですが、その人物が近づいてくるにつれて、背筋が凍るような違和感を覚えました。
その人は、赤い着物を着た小さな老婆でした。
しかし、歩き方がおかしいんです。
足が地面についていないというか、コマ送りの映像を見ているような、カクカクとした不自然な動きでこちらへ向かってきます。
さらに驚いたことに、その老婆には「顔」がありませんでした。のっぺらぼうというわけではなく、顔があるべき場所が、まるで古いテレビの砂嵐のようにザラザラとしたノイズのような霧状のもので覆われているんです。
老婆は僕の横を通り過ぎる際、聞き取れないほどの小さな声で、何かを呟きました。たぶん、
「……返しておくれ。……まだ足りないんだよ」
その声が耳に入った瞬間、頭の中に強烈な吐き気が込み上げました。
僕は無我夢中で、老婆とは逆の方向へ走り出しました。足音がしない世界で、自分の心臓の音だけがドクドクと大きく聞こえます。
走り続けていると、商店街の突き当たりに大きな鳥居が見えてきました。
そこは大月にあるどの神社とも違う、真っ黒に塗られた不気味な鳥居でした。
鳥居の向こう側は真っ暗でしたが、僕はそこに入るしかないと直感しました。
鳥居をくぐり抜けた瞬間、足元に何かが引っかかり、転んだ!そう思いました。
その瞬間、僕は中央線の線路沿いのフェンスに叩きつけられました。耳元では「ガタンゴトン」という大きな電車の音が響いていました。
いつも間にか、場所は大月駅から少し離れた真木(まぎ)という地区に近い場所のフェンスに倒れかかっていたのです。
時計を見ると、さっき駅前の路地に入ってから、わずか5分ほどしか経過していませんでした。
本当に理解できない体験でした。もちろんお酒などは飲んでいません。
翌日、明るくなってからあの路地があった場所へ行ってみましたが、そこには古いコンクリートの壁があるだけで、道なんてどこにもありませんでした。
しかし、あの日、僕の靴の裏にはあの商店街で踏みしめた見たこともない白い砂がびっしりと付着していました。なので幻想とか夢の類ではないです。
後で大月の歴史に詳しい地元の高齢者に、それとなく「この辺りに古い商店街の跡とか、黒い鳥居の神社はないか」と聞いたことがあります。
するとその方は、顔を曇らせてこう言いました。
「あんた、岩殿山の裏の街に迷い込んだんじゃないか。あそこは昔、大きな災害で村ごと飲み込まれた場所だ。今でも時々、連れて行かれるっていう噂があるんだよ。無事に戻ってこれたのは、運が良かったな」
それ以来、僕は夜遅くに大月の旧道を歩くのをやめました。
今でも時々、深夜にふと外を見ると、あの音のない商店街の湿った空気と、砂嵐のような老婆の顔を思い出して、足元がふわふわと浮くような感覚に襲われることがあります。
あの白い砂は、今でも瓶に入れて持っています。
時々、瓶の中で砂がサラサラと自ら動いているような音が聞こえることがありますが、怖くて中を見ることはできません。
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