私は地方で営業の仕事をしている30代の会社員です。
実は私が30代前半の頃「きさらぎ駅」に近い体験をした事があるんです。
日頃は車で移動することが多いのですが、あの日はどうしても都合がつかず、山間部を通るローカル線を利用しました。
目的地は古い工場のある町で、最寄り駅は無人駅。何度も使ったことのある路線だったので、特に警戒心もなく、いつものように淡々と移動をこなしていました。
10月も終わりに近づき、夕暮れが少し早くなったころ。
山の木々が赤や黄色に色づきはじめ、冷たい風がコートの裾を揺らしていました。
打ち合わせを終えて無人駅のベンチに座っていると、定刻通りに2両編成のディーゼル列車が到着しました。
私は何の気なしに乗り込み、窓際の席に腰を下ろしました。乗客は私を含めて4〜5人ほど。全員静かにそれぞれの時間を過ごしていて、車内はどこか眠たげな空気に包まれていました。
発車してからしばらくは、いつもと変わらぬ景色が流れていきました。山肌に沿ってカーブを描きながら進む線路、ぽつぽつと見える農家、そして時折すれ違うトンネルの暗闇。そのすべてが見慣れたものであり、安心感さえありました。
ところが、3駅ほど過ぎたあたりで、ふいに違和感を覚えました。
「次は……抜け道、抜け道……お出口は右側です」
アナウンスが流れた瞬間、私は「え?」と小さく声を漏らしてしまいました。
“抜け道”という駅名など、この路線には存在しないはずです。
何年もこの地域を担当してきましたが、そのような名前は聞いたことがありませんし、地図にも記されていません。(後に検索してみましたが、“抜け道駅”という文字列では何も出てきませんでした)
私は慌ててスマートフォンで現在地を確認しようとしましたが、GPSは反応せず、圏外表示になっていました。
路線は山間部にあるものの、普段は通信に困るような場所ではありません。
車内の電光掲示板にも、はっきりと「次は 抜け道」と表示されていました。アナウンスの聞き間違いではないことは明白でした。
やがて、列車は速度を落とし始め、まもなく停車しました。
窓の外を見て驚きました。
駅舎らしき建物はなく、ただ寂れたホームだけがぽつんとある。まるで何十年も前に廃止された駅のような雰囲気でした。
ホームの支柱に、朽ちた木の看板がぶら下がっており、かすれた文字で「抜け道」と読めました。
その瞬間、ぞくっと背筋が冷たくなりました。なぜなら、私にはこの駅の記憶がまったくない。にもかかわらず、それは確かに存在していたのです。
そしてさらに異様だったのが、ホームの奥に見える奇妙な構造物たちでした。
鳥居のような形をした石の輪が、何本も山道に沿って並んでいるのです。
ただ、それらは普通の鳥居とは異なり、上部が欠け、どれも中央が大きくくり抜かれており、まるで“輪”のような形状をしていました。
風が強くなり、車内に冷たい空気が流れ込んできます。
ドアは開いていますが、誰一人として立ち上がる気配はなく、誰も乗ってこない。
ただ、どこからともなく聞こえる「ガラッ……ゴトッ……」という、何か石のような物を引きずるような大きな音だけが響いていました。
私は思わず他の乗客に目を向けました。
すると驚いたことに、全員がうつむいたまま、まったく動いていなかったのです。顔が見えないほど深く俯いていて、まるで時間が止まったようでした。
声をかける勇気も出ず、ただ座っているしかありませんでした。
恐怖というより、“動いてはいけない”という直感に近いものがありました。
どれくらいそうしていたか、感覚がまったくありません。数分なのか、もっと長い時間だったのかもわかりません。ただ、唐突にドアが閉まり、列車が動き出した瞬間、空気が一変しました。
次の駅のアナウンスは、聞き慣れた名前でした。
車内の様子も元に戻っていて、先ほどまでうつむいていた乗客たちが、何事もなかったかのようにスマホをいじったり、窓の外を見ていたりしていました。
まるで“抜け道駅”の出来事が、最初からなかったかのように思えるほどの違和感。
それでも、あれは夢ではありません。
私は確かに、あの奇妙な駅の看板を目にし、風を感じ、あの異様な石の輪を見たのです。
数日後、どうしても気になって、あの地域の色々なワードを入れてネットで調べました。当然、「抜け道駅」という名前の駅はどこにも記載されていませんでしたが……。
ただひとつだけ、気になる記述が見つかりました。
それはあの地域の事で、昭和初期に書かれた郷土誌の一節でした。
「山深くに、“抜けの道”と呼ばれる石の列があり、年に一度、“輪をくぐることで災厄を回避し、境界を越えぬよう祈る”という風習があった。いつしかその風習は廃れた――」
私はその一文を読んで、あの石の輪を思い出しました。もしかしたら、あの石が“境界”だったのかもしれません。
今でもあの出来事が何だったのか、わかりません。もしあのとき、あの駅で降りていたら……。そう考えるたびに、少しワクワクもありますが背中に冷たい汗も流れます。
あの駅は、現実と何かの境界に存在する“抜け道”だったのではないか。そんな気がしてなりません。
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