貸座敷

今から二十年以上前、私がまだ小学生だった頃の話です。

 

当時、私の実家は埼玉県と群馬県の県境に近い、かなり寂れた農村地帯にありました。

 

古い習慣が根強く残る地域で、子供心に「触れてはいけない何か」が常に空気の中に混じっているような、そんな独特の重苦しさがある場所でした。

 

その村には、私の祖父母が住んでいた非常に大きな古い屋敷がありました。

 

典型的な日本家屋なのですが、その家には一つだけ、奇妙な空間があったんです。それが今回の話の核心である「貸座敷(かりざしき)」と呼ばれる部屋です。

 

祖父が亡くなった際、親戚一同がその屋敷に集まりました。葬儀の準備が進む中、私は従兄弟たちと屋敷の中で隠れん坊をして遊んでいました。

 

屋敷は入り組んでいて、子供にとっては格好の遊び場だったのですが、母から強く言い含められていたことがありました。

 

それは「北側の廊下の突き当たりにある襖だけは、絶対に開けてはいけないよ」と。

 

当時の私は、それを単なる「仏間だから」とか「古い道具が入っているから」だと思っていました。しかし、隠れん坊の最中、私は必死になってしまいその北側の廊下に迷い込んでしまったんです。

 

廊下は外の光が届かず、昼間だというのにひんやりとしていて、線香の匂いに混じって、何か腐った果実のような、甘ったるい嫌な臭いが漂っていました。

 

突き当たりには、確かに古びた襖がありました。取っ手の部分が黒ずんでいて、そこだけが周囲の壁から浮き上がっているような違和感がありました。

 

開けてはいけないと言われれば、開けたくなるのが子供の性です。私は周囲に誰もいないことを確認し、ゆっくりとその襖を引きました。

 

襖の先には、四畳半ほどの小さな部屋がありました。

 

しかし、そこは「部屋」と呼ぶにはあまりに異様でした。壁一面に、古い着物が何層にも重ねて貼り付けられており、中央には一卓の低い文机(ふづくえ)が置かれているだけ。

 

そして、その机に向かって、誰かが背中を向けて座っていました。

 

(この時、この人物にどこか見覚えがあると直感的に感じました)

 

しかし、そこに座っている女性は、生きた人間とは思えないほど肩が細く、肌は土気色をしていました。

 

そして彼女は何かを熱心に書いていました。カリ、カリ、と爪で板を引っ掻くような音が部屋に響いていました。

 

私が凍りついていると、その女性がゆっくりと首だけをこちらに向けました。

 

顔の半分が影になって見えませんでしたが、残りの半分には、びっしりと小さな文字のような刺青が、あるいは書き込みがされていたんです。

 

彼女は私を見ると、感情の抜けた声でこう言いました。

 

「貸しが、足りない」

 

恐怖で声も出せずに立ち尽くしていると、後ろから強い力で肩を掴まれました。

 

祖母でした。

 

祖母は般若のような形相で私を睨みつけ、無言で襖を閉めました。

 

そのまま私は居間に連れ戻され、その夜、村の神主だという老人から、一晩中意味のわからない呪文のようなものを聞かされ、体に塩を塗りたくられるという異様な儀式を受けました。

 

翌日、母から「貸座敷」の本当の意味を聞かされました。

 

あの部屋は、この家が代々「何か」から幸運を借りるために用意された場所なのだそうです。その「何か」とは、かつて村を追われた者や、行き場を失った者の怨念のようなもので、それを家の中に一室だけ「お貸しする(住まわせる)」ことで、代わりに一族の繁栄を約束してもらうという歪なものでした。

 

確証はなくオカルト的な話ですが、叔母が死んだのは事故ではなく、その契約の「利息」として連れて行かれたのだと、母は涙ながらに話してくれました。

 

そして、あの部屋に座っていたのは叔母の姿を借りた「何か」であり、私が見た顔の書き込みは、次に「貸す」べきもののリスト(差し出す物もあると言っていた気がします)だったというのです。

 

数年後、祖母が亡くなり、その屋敷は取り壊されることになりました。

 

私は大人になってから、解体作業に立ち会った父に当時のことを尋ねました。

 

父は複雑な表情で、一枚の古い図面を見せてくれました。

 

その図面は屋敷の設計図でしたが、私が襖を開けたあの北側の廊下と部屋があるはずの場所は、ただの「空白」になっていました。計算上、そこに部屋が存在するスペースなど、屋敷の構造上のどこにもなかったんです。

 

父が言うには、解体業者が北側の壁を取り壊した際、そこには部屋も廊下もなく、最初からただの庭だったそうです。

 

しかし、私は確かにあの時、襖を開け、叔母の姿をしたものと対峙しました。

 

そして今でも、たまに夢に見るんです。あの真っ暗な廊下の突き当たり、襖の向こう側から「カリ、カリ」という音が聞こえてくるのを。

 

現在、私は30代になり、平穏な生活を送っています。しかし、最近になって気になることがあります。

 

私の背中に、小さな痣のようなものができ始めたんです。それは一見するとただのシミに見えますが、鏡でよく見ると、あの日、叔母の顔にびっしりと書かれていた「あの文字」と同じ形をしているように見えてなりません。

 

あの家はもうありません。

 

しかし、借りたものは返さなければならない。それがこの世の道理だとするならば、一族が何代にもわたって「借りてきた幸運」の清算は、一体誰がすることになるのでしょうか。

 

最近、夜中にふと目が覚めると、寝室の壁から、あの甘ったるい腐った果実のような臭いが漂ってくることがあります。

 

そして昨日、私の娘がその壁を指差して「おばちゃんが、紙が足りないって言ってるよ」と呟いていたので、念の為この話を早急に書いてみました。

 

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