10年前の夏ももう終わろうかという日の出来事です。
まだまだ残暑も厳しく、夜もムワッとした暑さが残るなか毎日のように残業が続いていました。
当時、私は、始発駅から終点駅まで長距離の通勤をしていました。片道1時間以上かかる通勤です。
引っ越しも考えてはいましたが、当時付き合っていた女性の実家も近く思いきれない感じで、しかたなく朝は早起き、夜は遅くという生活をしていました。
ようやくその日も仕事を終え、気がつけばすでに終電間際の時間。
パッと会社を飛び出して駅まで走り、会社から最寄りの駅で終電のホームに並びました。
「あぁ、この位置に並んでいれば、運が良ければ座れるな」そう考えているうちに、終電車がゆっくりと入線してきました。
ドアの前には座りたいと願う人たちが今か今かと開くのを待ち構え、自分もその一人で、最後のひと頑張りだと奮い立たせていました。
ドアが開いた瞬間に人混みをかき分けて空いた席を探し満員電車特有のむっとした空気と、残業帰りの人々の疲れ切った顔の中を突き進み、運よく一席だけ空いているのを見つけました。
「よし、座れる!助かった…」そう思いながら、腰を下ろそうとした瞬間、横から同じく駆け込んできた男性が同じ席を狙っているのに気づきました。
「これは、勝負だな!ここはゆずれない!」と思わずグッと体をひねり、先に腰を下ろしました。
間一髪で私は座ることに成功。
その男性は無言のまま、私の目の前に立ちました。
「ごめんなさいね、お疲れのところ、ただ今日はもう限界なので座らせてください」心の中でそうつぶやきながら、私はうつむき、深く息を吐きました。
疲れ切っていた私はそのまま半分眠るようにして意識が遠のいていきました。
電車はそのままゆっくりと終点に向かって発車。急行で、停車は少ないけど、停車するごとに乗客は次第に降りていきました。
都心を離れ、郊外に差しかかるころには、車内はだんだん空席が目立つようになり、やがて半分ほどの席が空いていました。
ふと目を覚ますと、席を競った男性はなぜか私の目の前に立ったまんまです。
つり革を握ったまま、うつむき加減でじっと立ち続けているのです。
ちらりと目だけ動かして見上げると、彼の影がわずかにこちらに覆いかぶさるように感じられました。
「座ったらいいのに、もう降りる駅が近いのかな……?」最初は不思議に思う程度でしたが、駅を過ぎるごとにそれは恐怖に変わっていきました。
「……なんで座らないんだ?」あと3駅というところで、とうとう車内には私とその男性の二人だけになりました。
それでも彼は座らず、無言のまま私の前に立ち尽くしています。
空いている席はいくらでもあるのに。
なんでここに立ち続けているのか?
得体の知れない恐怖がこみ上げてきました。
ふつう、ヒトは電車に立っていると、足をくんだり、貧乏ゆすりしたり、ごぞごぞと動いたりをすると思うのですが、この男性は、ピクリとも動かないのです。
まるでマネキンが立っているよう、いやマネキンでももう少し震えたりしますが本当に動かないのです。
電車の電灯に反射して彼の鈍く光るビジネスシューズが不気味さを助長しているようでした。
私は直感的に「目を合わせてはいけない」と思い、眠ったふりをしながら、ただ俯き続けました。
視線を上げれば、何か取り返しのつかないことが起きる……そう本能が告げていました。
「はやく、降りてってくれ」「なんなの?いったい?」
気づけば、手にじっとりと汗がにじみんできています。
息を吐くのも、か細い空気が漏れるだけ「もしかしたら刺されるかもしれない」行き過ぎた妄想かもしれません。でも理屈ではなく、とにかく怖かったのです。
沈黙の中、電車のガタンゴトンという走行音と降りて行った人の残り香が不気味に漂い
一駅一駅の時間が異様に長く感じられました。
とうとう、残すは自分の降りる終点駅。
「あっ、この人降りない、自分が降りるまで動かないな」諦めにも似た、覚悟を決めて、終点駅へと向かいました。
ようやく終点駅に着いたとき、私は恐怖の中でしたがパッと一気に立ち上がり、ドアが開くと同時に一目散にホームを駆け出しました。
改札への階段を駆け上がり、両者の姿が見えなくなる位置まで走り続けました。
顔を見てしまったら、見られてしまったらという怖さもありました。
でも後ろから追いかけてくるような足音は聞こえません。
恐る恐る振り返ると…電車の中、私が座っていた席に、あの男性が腰を下ろしているのが見えました。
微動だにせず、ただ座り込んでいるその足元だけが車両のガラス越しに見えていました。
その光景に、幽霊やホラー映画なんかよりもずっと生々しい恐怖が体を襲いました。人間の沈黙と不可解な行動が、私の血の気を奪い取っていったように感じられました。
その日以来、電車で無理に席を奪い合うのはやめようと、心の底から思いました。
あのときの得体の知れない恐怖と緊張感は、今でも鮮明に記憶に残っています。
著者/著作:怪文庫【公式】X(旧Twitter)