奥の鏡

もしかしたら私は異世界に行ってきたかもしれない。

 

前職で私は若者向けのアパレルブランドのショップで販売員をしていた。

 

お店は東京都内のある商業ビルの中にあって、館内はけっこう広かった。

 

だけど、昔屋上から飛び降り自殺があったとか、幽霊が出るだとか、そんな噂もあるビルで、実は私は少しだけ霊感的なものがあるのだけど、まあ…ここでも確かにそういうのは見えた。

 

お店の営業時間は朝十時から夜の二十一時まで。

 

スタッフは三人でシフト制。店長と、サブ店長(私)と、フルタイムのスタッフ一人。平日は早番と遅番を一人ずつで回していたから十九時頃からお店は一人体制になる。

 

駅からちょっと離れていたから仕事帰りに来るお客さんは意外に少ないので一人でも回せた。

 

そんなうちのお店には奥に大きな鏡があった。

 

壁にくっついているタイプの鏡で、店内が混みあっているときでもお客様二人並んで服を合わせられるくらいの大きさがあった。

 

私は少しだけ霊感的なものがあるって前触れしたけど、時々、その鏡に人の足の影のようなものが吸い込まれていくのが見えていた。

 

足しか見えない。黒い靴だけが鏡に向かって歩いていく感じ。

 

自分しか見えていないって思ってたけど、ある日、店長が鏡の方向へ向かって床を指さしながら「今、通った」ってつぶやいたときは背筋がひんやりした。

 

店長は元々霊感がないけどこの店に配属になってから見えるようになったらしい。

 

そういうおかしな鏡があったんだけど、おかしかったのは鏡だけじゃない。

 

うちのお店はフロアの端だったのだけど、店の出入り口から縦に伸びる長い通路があって、エスカレーターを横目にそのままフロアの反対側の端まで通り抜けられるようになっていた。

 

私はその長い通路が「ちょっとおかしいな」とずっと思っていた。

 

何がおかしいって聞かれると、ただの違和感というか感覚的なものになるのでわからない。

 

その通路と店の奥の鏡は一直線につながっていた。だから私は、黒い靴が吸い込まれていくのは、もしかしたら通路から鏡に向かって幽霊の通り道になっているんじゃないかな、などと考えていた。

 

店長にその話をしたら、「霊界とつながってんじゃない?」と冗談っぽく返されたことがある。

 

ある日のこと。

 

平日だったのでシフトは二人体制だった。

 

私は遅番。早番のスタッフが十九時に上がった。

 

ビルが駅から離れているから雨の日とか給料日前とかは本当に暇で、その日も早番の子が帰ってからお客さんが二人くらいしか入ってこなかった。

 

もちろん、売上も立っていないので店長への言い訳を考えながら乱れてもいない服をたたみ直していたところ、私は急にトイレに行きたくなってしまった。

 

確か二十時過ぎだったと思う。

 

早番の子が帰って私一人だったので、隣のお店のスタッフA子と斜め前の店のスタッフB子に声をかけに行った。トイレに行っている間、自分のお店を見ててもらうために。

 

周りのお店も三〜四人のスタッフで回しているので平日の夜は各店舗に一人ずつしかいない。なので、急にトイレに行きたくなったときは「ちょっと見張っててください」とお互いに協力し合っていた。

 

隣のお店の子たちが快く引き受けてくれたので私は長い通路を突っ切った先のトイレに向かった。

 

トイレの帰り。

 

何かが変だった。

 

なんか胸がザワザワして落ち着かない感じというか、頭もぼーっとしていて、あーやばいコレ貧血かもって思いながら歩いていた。

 

通路を突っ切って自分の店に近付いていく。

 

店の奥の大きな鏡には歩いている自分が映っていた。

 

なんとなく、鏡の中の自分がそのままこちらに歩いてくるような感じがした。

 

一瞬だけ体がふわっと浮いたような感覚になった。でも、あまり気にしなかった。変な感覚ではあったけど。

 

私は斜め前のお店に行って、見ていてくれたB子に「ありがとう」と声をかけた。

 

「いいえー。お互い様だから」と、B子はカウンターから出てきた。ちょっと立ち話でもする雰囲気で。

 

こういう暇な夜とか(本当はいけないんだけど)周囲のお店の仲良い子と立ち話をすることがある。

 

でも、私の目の前に立ったB子には違和感があった。

 

なんか顔が違うというか、B子のようでB子ではない、というか。

 

なんだろう……。私やっぱり貧血おこしてるかも。

 

そう思いながら二、三分だけ世間話をした。

 

それから私は隣の店のA子にも「ありがとう」と声をかけた。

 

で、「とんでもないです」とこちらを振り返ったA子も……やっぱりいつもと雰囲気が違う。やっぱり顔がおかしかった。

 

あれ? A子ってこんな所にホクロあったっけ。

 

私はA子の右頬を見つめた。

 

でも、A子の顔だし、そもそも私自身がそう認識している。

 

でも…なにか変だ。そう思いながらA子とも一言二言雑談を交わした。

 

これはあとから気付いたことだけど、人の顔って左右で目の形とか位置が微妙に違う、二人ともその左右が入れ替わっているような感じだった。

 

それから閉店まで私はずっと落ち着かなかった。

 

なんか違う、なんかおかしい。いつもの平日の夜じゃない、いつもの店じゃない、いつものA子じゃない、いつものB子じゃない。

 

それでとりあえず気分を落ち着かせようと棚の上の服をたたみ直していた時、ふと床を見ると、例の大きな鏡から黒い靴が出てきて通路の方へ向かっていったのが見えた。

 

いつもと逆。いつもは鏡に向かって靴が消えるのに。

 

私は鏡が怖くなった。

 

いつの間にか閉店時間になり、私はレジ閉めの作業をした。

 

ビルの上にある事務所で入金してまた店に戻ってくる。

 

長い通路を通る。

 

通路を突っ切って自分の店に近付いていく。

 

奥の大きな鏡には歩いている自分が映っていた。

 

鏡の中の自分がそのままこちらに歩いてくるように見えた。

 

そして、体がふわっと浮いたような感覚になった。

 

その瞬間私は無意識に、「戻ってきた!」と、心の中で叫んでいた。

 

先に帰り支度を終わらせていた隣の店のA子とすれ違った。

 

「お疲れ様でした」と挨拶をする。

 

左頬にホクロがある。違和感なんてない、いつものA子の顔だった。

 

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