俺は1991年に某大学の法学部に入学した。
法学部があったのは「名古屋校舎」だったが、実際は名古屋市郊外の別の町にあった。名古屋校舎は、高速道路沿いの小高い山を切り開き建てられていた。最寄り駅からは「徒歩7分」と謳われていたが、実際に7分で歩こうとするとかなりの速足で歩かなければならない。
その上7分かけてたどり着いた正門から校舎までは延々と坂道を登らなければならない。自動車であればほんの2,3分の距離だが勾配はかなり急で、まともに歩こうとすると10分近くかかる道のりだった。
俺が入学した時は開校から4年目で、校舎はまだまだ新しかったが開発は進んでおらず、日が暮れるととても寂しい場所だった。駅前のロータリーにコンビニ風の商店があったが24時間営業ではなく、また駅と大学の中間点辺りに喫茶店がある他建物はなかった。
駅裏に学生目当てのアパートがいくつか建ち始めた頃で、その中の一棟に同級生Aが住んでいた。
Aは県内の別の市の出身で、自宅から通おうと思えば通える距離だったが一度一人暮らしがしてみたい、という理由で一人暮らしを始めたいわゆるボンボンであった。
寂しい場所ではあったが新築のアパートはなかなか豪華な内装だった。
俺はと言えば、大学まで原付で15分ほどの場所に実家があり、とうてい一人暮らしなどはできずAのアパートに入り浸っていた。
夜中に当時できたばかりの24時間営業のコンビニに行くのが楽しみだった。原付で10分ぐらいかかる場所で、途中山を越えなければならないのが厄介だったがそれでも夜中の外出は楽しかった。
いつも原付に二人乗りをしてコンビニに行っていたのだが、夏のある夜途中でガス欠してしまった。
あと少しで山を越える、というところで原付が止まってしまった。ガソリンスタンドはコンビニよりもずっと先にあった。
幸い夜遅くまで営業していたため、俺たちは原付を残して山を越え、コンビニで2リットルのペットボトル入りのお茶を買い、中身を飲み干してスタンドで給油してもらうことにした。(その頃はそういうことに対してまだまだ寛容な時代だったのだ)
原付を停めてから1時間ほどをかけてガソリン入りのペットボトルを携えて、俺たちは汗だくになりながらもようやく戻ってくることが出来た。
それはそれで一つの冒険のようで楽しかったのだが、いざ原付まで戻って給油したところセルモーターが回らなかった。キックしたり見よう見まねで押し掛けしたりもしたが原付はうんともすんとも言わず、仕方なく俺たちは原付にまたがり坂道を惰性で下った。
明日もう一度試してみて、それでもエンジンがかからなかったら大学の自動車部の友達に見てもらおうと思い、駅の駐輪場に原付を停めて、Aと二人アパートまでぶらぶらと歩いて帰った。
その時俺は遠くの方に灯る赤い光を見た。
それは超常現象でもなんでもなく、ただの窓から漏れる明かりだったのだが、それは懐中電灯に赤いセロファンを被せたような、ちょっと異常なくらいの赤さだった。
近づくにつれてそれはAのアパートのそばに建つ別のアパートの2階から漏れる明かりであることがわかった。
カーテンが大きく開いたその部屋は、内装が赤を基調にしているようだった。見るともなくその部屋を見ながら歩いていると、ふとその窓を人影がよぎった。
それは髪の長い女であった。
赤い部屋から見える髪の長い女というなんとも言えないシチュエーションに興奮した俺たちはなんとなくそのアパートに近づいて行った。
その時である。
俺たち二人が見つめる前で、突然女が窓から上半身を乗り出すと、そのまま転落していった。
突然のことに一瞬あっけにとられたがすぐに走ってアパートに向かった。
近づくにつれて俺は惨状を予想して速度が鈍ったが、そんなことを言っている場合ではない。
アパートに敷地に駆け込み落ちた女を探したのだがなぜかその姿が見つからない。
女が落ちた赤い部屋を見上げたがいつのまにか明かりは消えていた。
消えていたどころか、窓が閉まりはためいていたはずのカーテンも見えなくなっていた。確かに俺たちが見たのはそのアパートであった。
周囲に新しいアパートが建ち並ぶ中で、そのアパートはかなり古ぼけていた。
俺はなんとなく寒気を覚えその場を立ち去った。Aの部屋に戻っても興奮は冷めやらず、俺たちは朝まで赤い部屋について話し合ったが結論は出なかった。
俺たちは出かける前にお酒を飲んでいた。しかし原付が止まるアクシデントもあり、その時にはすっかり酔いは覚めていたはずである。
そもそも幻覚を見るほどに酔ってもいなかった。二人とも間違いなく窓から漏れる赤い明かりと、窓から転落した女の姿を見ている。
しかし落ちたはずの場所には何の痕跡もなく、あれほど煌々と灯っていた明かりも消えていた。それどころか開け放されていた窓も閉じていた……。
翌日、駅に停めた原付は何事もなかったかのようにエンジンがかかった。
俺は前夜の怪異の証拠が消えてしまったような気持ちになっていた。
古ぼけたアパートがあたかも幽霊アパートであるかのように不気味に感じていたが、一夜明けた朝の光の中で見ると、さほど不吉な雰囲気は感じなかった。
見たのは間違いないと言いたいのだが、明るい中で改めて見てみると、どうでもいい、という感じが強く、それ以降その話をすることはなくなった。
それから半年後、Aは親から車を買ってもらい、部屋を引き払ってしまった。
Aが自宅から通学するようになったため、それ以降俺も在学中はその辺りに行くことはなくなった。
それからほぼ30年ぶりに、ある時仕事の関係でそのすぐそばを通る機会があった。
俺は辺りを散策してみることにした。
あの頃に比べて店舗やアパートが増えて、開けた印象に変わっていたが肝心の名古屋校舎はその数年前に名古屋市内に移転していた。あの頃新しかったアパート群は年月の経過相応に古びていたが、あの古いアパートは当時の姿のまま残っていた。
たまたまアパートの周囲を掃き掃除している人がいたので話しかけてみると、その人はほんの十数年前に住み込みの管理人としてそのアパートに住むようになっていて、当然俺が学生時分のことは知らなかった。
駅に激近ということで古いながらもそれなりに入居者はいるようだったが、2階にはまだ空きがあるようだった。
あの部屋がどうなっているのか聞こうとも思ったが、どう切り出していいかもわからず俺はその場を後にした。
それからしばらく経って、俺はたまたま会社のそばで高校の同級生と出くわした。
現在名古屋市に住んでいる同級生はもともと大学があった町に住んでいた。俺が大学在学中もそうで、その同級生から俺は思わぬ話しを聞く事になった。
赤い部屋の女の怪談は、実はその町ではメジャーなものであったという。
俺も見た、と言うと冗談だと思ったのか、わかったわかった、とあっさり流されてしまった。
あれから何年も経ち、むきになって否定するほどの話でもなかったのでそれ以上主張はしなかったが同級生によると「赤い部屋の女」の話はこうである。
一人の女がアパートの2階で暮らしていた。
女はある男と交際していて、その男は決まって金曜日に女のもとを訪れたという。
ある日女は窓の外に男の姿を見かけた。その日は金曜日ではなく、男の意外な訪問に喜んだ女は窓から身を乗り出して男を迎え入れようとしたが誤って転落死してしまった。
実は男は別の女性と付き合っていて、その時も一緒だったという。男はたまたまその辺りを通りかかっただけなのだった。
転落した女は血まみれのまま男の所に這っていき「その女、誰?」と言い残して息絶えたという。
それ以来アパートの2階の真っ赤な部屋から窓の外を見つめる女の幽霊が見られるようになった。
幽霊は付き合っていた男によく似た男が通りかかると窓から身を乗り出し転落してしまうと言われている。
同級生の話を聞いて俺は総毛立つのを感じた。
俺はその時初めてその話を聞いた。しかし俺が学生時代に目撃したのはまさにその怪談の通りであった。
最初俺は、同級生がAから話を聞いていて、俺を引っ掛けようとしているのだと思った。しかし同級生はそもそもAのことなど知るはずもなく、会ったこともないと言う。
俺には間違いなく「赤い部屋」を見た記憶がある。
Aも同じように赤い部屋を見ているはずで、俺は何十年かぶりにAに電話をしてみた。
しかし電話に出たのは全く知らない別の誰かであった。
著者/著作:NOVITA