あれは私が就職して一年目の秋のことでした。
仕事にも慣れてきて、残業で夜十時くらいに帰る日々が続いており、忙しいながらに充実した日々が続いていました。
そんなある日のこと、家に帰ると、マンションの私の部屋の前に、ビールの缶が置いてあるのを見つけたのです。
なんでだろう、と思いつつ手に取って部屋に入ると、まあ何かの勧誘が来ていて留守中に置いて行ったのだろうと考え、その日は眠りにつくことにしました。
次の日、仕事でまた帰りが少し遅くなって家に着くと、またビールが置いてあります。
二日連続となると奇妙に感じましたが、しつこい勧誘がいるのかと自分を無理やり納得させることにしました。
ですが、次の日も、そのまた次の日も、それは続きました。
自分でも何故かそれが日常になっていて、仕事から帰った後にビールがある。
むしろ嬉しくさえ感じていました。
決まってビールは平日に置かれており、土日には置いていないこともわかっていました。
そして、何かの勧誘ではないということも。何かの勧誘であれば、在宅している土日に訪ねてくるのが賢いはず、そして何のメモ書きすら添えられていない。
誰が、何の為にやっているのか。ふと恐ろしい気持ちになりました。
未開封だったので毒などは混入させられていない、と思いましたが、そういった犯罪に巻き込まれている可能性を考えると、対策をしなければならないと初めて心に決めたのです。
次の日から、私はビールを玄関の前に置いたままにすることにしました。
しかし、それは何の解決にもならず、次の日、その次の日も、新しい缶が家の前には置かれ続けました。
自分では持って帰って家に入れることはなかったのでドアの横に寄せていましたが、毎日置かれ続けるので、缶は増えていく一方です。
誰が何のためにこんなことをしているのかと頭が痛くなるほどに考え込んでしまいました。
そしてふとある考えが自分の中に生まれました。
私に向けてではなく、この家に何かの執着を抱いている人間がいるのではないか。
自分に危害が及ぶことはないと考えると、幾分か気分は落ち着いてきました。
次の日は休日だったので、思い切ってマンションの隣のお宅へ訪ねることにしました。
引っ越しの時に少し挨拶したきりでしたが、五十過ぎの小綺麗にしている男性は、お聞きしたいことがあるというと、玄関先に出てきてくれました。
早速本題を切り出そうと、緊張しながらも私は口を開きました。
いきなり缶のことを言うのは抵抗があり、私は尋ねました。
「ここの部屋(私の部屋)には、以前どのような方が住んでいたかわかりますか」
隣人は少し驚いた顔をした後に、苦々しい口調で話し始めました。
「ああ、大学生の男の子が住んでいましたね…」
神妙な面持ちでなにか言いたそうです。隣人も私の異変を察したのか、管理の人に聞いた話だけどと言って詳しく教えてくれました。
「その子は交通事故で亡くなったそうです。二十歳になったばかりで、友達と飲みに行ったときに車に撥ねられたと聞きました。親はシングルマザーだったようで、お母さまはそれ以来精神を病んでしまったとか…」
少し間が開いて、
「…部屋に、何か問題がありましたか?」
すべてを察した私は、いえ、と答え、お礼を伝えました。
あのビールはその大学生の母からのお供え物だったのだと理解したからです。
ようやく私は得体のしれないものから解放された気分でした。
……ですが、部屋に戻ろうとする私に隣人は話を続けます。
「そのお母さまも、後を追うように自殺してしまったそうですよ」
声が出ないとはこのことを言うのかと、私は目を見開きました。
その後引っ越しをして、私を悩ませるものはなくなりました。
ですが最近、SNSをぼーっと見ていると、ある投稿が目につきました。
「なんか家の前に缶ある」
あの玄関でした。
私は、見なかったことにします。
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